〈 2007年8月4日 〉
FUSUMA STUDIO便り 
田村能里子ウエブサイトアートミュージアム開館と同時にスタートです。   
年始めの整理整頓に続いて春先にアトリエの内装をコンクリートの打ち抜き
から南欧調の軽いネイプルスイエローに変え窓のブラインドもダークグリーンの
リゾートスタイルに変えてみた。

 これから向う1年、主戦場は、アトリエから襖絵を58面(最終的に)仕上げる
東京・渋谷の襖スタジオに移る。
アトリエはむしろ休息の場ほっとくつろぐ第2のリビングのようなものになる。
生活の体制を整えるのと同時に過去の時間を洗い流して無心で襖に向かう
つもり、何となく斎戒沐浴という言葉が浮かぶ。

 今年暖かくなりかけた4月の頃、渋谷の襖スタジオの空間が出来上がった。
京都の和尚さん(宝厳院)から京都で描くのなら寺の近くにスタジオを
用意するというお話しもあった 。
けれどもやはり1年以上貼りつく場所が東京の自宅(アトリエ)から
遠いのは勘弁していただき、自前で探すことに。
この古いアパートの二階をブチ抜いて鉄骨の支柱は残るが
120米uのスペースを確保した。照明・空調をしつらえ、
窓・ドア・柱も古代朱レッドに塗装し、長期戦に備える。
肝心の襖をどう張り巡らせるか。本堂の実際の配置(6部屋に区切られた空間)
通りにするには200米uが必要なので、結局窓を全てふさぐ格好で
 58面(最終的に)を各々6等分に省略した組み立てにした。 










 
〈自分流の襖絵…〉
  日本画の制作だと相当大きなものでも床に広げてかがみ込んで描くのだろうが洋画の場合というより
 私の場合は全て直立した壁面(またはキャンバス)か天井画しかやったことがない。
 結局襖絵と全く同じ寸法の板を組み立て、その上に最終的に決断した画布(布地のキャンバス)を貼ることにした。
 従来の襖絵は顔料(つまり絵の具)が岩絵具か墨であり、それを和紙や木版に乗せていく組み合わせだったと思う。
 実は今回襖絵を描くということで、特に今までの襖絵の素材とか技法を調べたり勉強はしていない。

 襖絵は日本画家(墨絵を含めた広義の襖の作り手)以外の作り手は入ったことのない領域だ。
 洋画の作り手が襖に取り組むというのはおそらく襖絵の歴史上(ちょっと大げさだが)はじめてのこと。
 初めてのことをやるのに、今までの襖絵をよく勉強するというのも一見大きな道をはずさないということに
 役立つかもしれないが私の今までの経験からは、そういう類の勉強(とか事前教育)は先入観や色々な制約となって
 自分の手足を縛りがち。
 一切そういった勉強と関わりなく真っ白なものに向かう心で挑もうと。
 それと今の時代、日本画と洋画の区別も意味がなくなってきている。
 日本画もいつまでもニカワと岩絵の具と絵筆だけで出来ているものでもないだろう。

 洋画も昔の油彩絵具とテンペラと油彩筆から作られていたタブロウから顔料自体も多彩になり、
 手法も筆に限らずコンプレッサーから研磨機など含む手法技法も様々に変化してきている。
 もちろん描く画題も日本画・洋画が区別されているような時代ではない。
 強いていえば具象・抽象・モダンアートのような漠然とした区分がある程度(それも定かではない)分類されるだけなのだろう。
 私自身使う絵具も油彩・テンペラからアクリル樹脂とこの40年間の間に色々と巾が広がっている。
 絵筆も油彩筆・和筆に加えて絵筆以外の自家製ハンドローラーや様々なゴム版なども使って描くようになってきている。
 むしろ周囲の実態は想像以上に進んでいるのだろう。

 油彩・岩絵具の他にミックストメディアという表示をを見かけたことがあるが、現代のプロの絵描きは各々が
 独自のミクストメディアで各々の独自の手法で描いているのではないかと思う。
 私は絵のことについてはこだわりが強く、強情で閉鎖的と自分でわかっているので他のプロの絵描きさんと
 そんな話はしたことはなく、全て自分自身で壁にぶつかり試行錯誤を繰り返して自分で自分のメディアと手法を見付けて
 試してきた・・・。ちょっと話がわき道にそれてしまいましたね・・・襖のことでしたね。

 ○禅寺の襖絵との縁の糸 

  
ちょっと話がさかのぼる。
 今から20年前。日本の文化庁から初めての中国在外研修員となって北京の中央美術学院に留学した。
 期間は僅か(?)三ヶ月。40歳を超えちょっとトウのたった留学生だったが中近東やアフリカから来た若者たちと
 同じ学生寮にに入り、なんだか、得体の知れない揚げ物や炒め物の煙に包まれて、学生生活を味わった。
 (実はその得体の知れない煙が本当に火事を起こして何の関わりもない大和撫子?(つまり私)が
 め組の火消しよろしく火中に飛び込んで鎮火させた思い出もある。)
 或る日市内の胡同(フートン)地区をぶらつきながらスケッチをしていたら、見事に公安警察官に両腕を取り押さえられ、
 一日中取調べを受けたことも思い出す。留学中のおもしろ話はべつの機会に譲るとして襖絵との不思議な因縁へと戻ります。
 そのころの美術学院の授業は正直いって退屈そのものだった。当時は全国から受験で選抜された学生たちに、
 国から画材から絵筆まですべて支給されていて、さだめられたカリキュラムに従って決められた枠内の絵を
 塗り絵のように習得していくというなんとなく公立技術者養成所という感じだった。
 そんな生活にはすぐにあきたらなくなって折角一人で中国にきたのだから、まだあまり人のいっていない
 西域・シルクロードの中国の果てまで旅に出かけてみようと思い立った。記録を残すために当時はバカでかいビデオカメラと
 変圧器、それに絵を描くための画材一式総計12,3キロを背負い込んで西安行きの夜行列車に北京中央駅から
 のりこんだのは1986年の早春のことだった。

  楊柳の芽も吹き出していない寒空の中を出発した列車は翌日西安についた。
 日本を発つ前に、私が中国に留学する記事を何かで読んだ方から、西安にいくことがあったら訪ねてほしい場所があると聞いていた。
 そこは市の郊外で大雁塔の近くで建設予定の日本中国合作(合弁)ホテルの建設現場だった。
 現場はすべに掘り起こされブルがあちこち動き回っていた。
 「ここは唐の時代長安の都の中心地だったところで現場からいろいろな遺物がでるので厄介なんですよ」
 と日本から派遣されていた現場監督の方がこぼしていた。
 私に声がかかったのはこの国際ホテルのロビー4面、全長60メートルに壁画を描いてほしいという依頼だった。
 土くれだった大地からそれはどんなイメージか想像もつかなかったが、とりあえずその依頼を抱えながらさらに
 西の方に旅をつづけた。
 
 西安は西域への出発地だ。
 中心の大鐘楼から西方はシルクロード。蘭州・敦煌・ウルムチ・トルファンと列車やバスを乗り継いで旅をつずけた。
 私にとってのはじめてのシルクロードはひとり旅の不安や不便を忘れさせるような新鮮な驚きと感動をもたらしてくれた。
 どこまでもつづく土漠とその間にある数多くの遺跡やオアシスの街。
 その風土とそこで生活する人々の姿。私の追い求めてきた「人の形」のモチーフがごろごろところがっていた。
 旅の残り日数も少なくなったころどうせ西への旅だからと最西端のカシュガルまで足をのばした。
 当時ウルムチから飛行機バスを乗り継いで2日かかった。
 最西端の街で私は自分の生涯のメインモチーフとなるひとのかたちに出会った。
  それはこの街角で憩っていたり、たむろする老人たちの姿だった。
 砂に洗われ、削がれ、樹木が立ち枯れて土に返っていくような、自然と一体になった老いのかたち。
 幾千年の中央アジアの興亡をくりかえしてきた民族の今あるすがたに、深い味わいのある美しさを感じた。
 この老いの深さと美をなんとか画面に掬い取りたい、刻み込みたいと一心に画帳に筆を走らせた。
 私の最初のカシュガル滞在は予定よりだいぶ長くなって、日本に帰国した時はすでに晩春に入っていた。
 このシルクロードとの結びつきが西安のホテルのモチーフへとつながり、襖絵への導線となっていく。
 その年の秋まで日本で60メートルの壁画のデッサンを重ねて、再び西安入りした。
 ホテルは骨格だけは立ち上がっていたが、屋根は無くドアも無い。
 ただロビーの四面の漆喰と覚束ない足場だけは組まれていてすぐにとりかからないと完成までには壁画は
 間に合いそうになかった。
 こうして残暑の残る黄ばんだ空の下で私の壁画第一作はスタートした。それから1年半私は西安の現場にはりついて
 時々日本にもどっては、新たな画材やデッサンを持ち帰って制作をつづけた。



  1988年3月私の壁画第一作「二都花宴図」は完成し、始めての日中合作ホテル「唐華賓館」もオープンの運びとなった。
 以来20年の年月がたち、その間に「二都花宴図」にまつわる長い長いストーリーが展開するのだが、
 ここでは寄り道が長くなってしまうので省略させていただく。
 ホテルには中国だけではなく日本からも大勢の旅行者が訪れ、壁画は皆さんに可愛がっていただいてきた。
 (この間壁画は日中文化交流の日本からの贈り物という気持ちで、私は中国陝西省政府に寄贈し、
 中国政府から軒猿杯という国際文化芸術賞をいただいた)
 西安は遣唐使として中国に渡った空海や最澄が勉強したことでも知られるように、三蔵法師ゆかりの地でもあり、
 日本からも仏教関係者が多く訪れており、私の壁画も親しんでいただいた。
 その中に今回の襖絵を依頼された天竜寺塔頭宝厳院の和尚さんがおられたというのが、縁の糸のあらすじだ。
 塔頭宝厳院がこのたび数百年ぶりに本堂を建立することになり、和尚さんはかねてから心に抱いていたこと、
 禅宗の発祥の地域でもある西安にある壁画「二都花宴図」の作者に襖絵を委ねてみたいとの思いをぶつけてこられた。



〈 2007年8月8日 〉
今年5月まず組み立てられた58面(最終的に)を、それぞれ本堂入り口の間、
中央の間、奥の間、本尊を囲む間 (それぞれ正式の部屋の名前があるが省略する)
に振り分けそれぞれの間の部分の基幹色を決める。
基幹色とは絵肌の一番下地の色のこと。キャンバスの布地の上に初めてコンタクトする顔料だ。
これもアクリル樹脂だがカラージェッソという布地と後から乗せるアクリル顔料との間の
接着剤の役割ももつ材料だ。色は大つかみな空間ごとの図柄の構想に従って決めてゆく。
入り口の部屋から奥に向かって順に、あけぼの、陽光、たそがれと配し、
本尊の周辺は夢の中の時間とときの流れに沿ったイメージの空間とし、
それぞれ赤、青、黄色を置くところからスタートした。
 
 壁画や数十枚の襖絵という巨大な、長大な画面を一人で予め想定された期間内に
最善の手法で描きあげるための技術的な研究工夫をこの20年間考え実践してきた。
絵を描くということはどんなモチーフであろうと具体的に実践・実行しなければ形にならない。   
絵に限らずアートや創造とは結局実践であり、一面技術的な開発工夫とほとんど変わらない
面をもっているのだと思う。
まず顔料はアクリル樹脂顔料を使う。手業は大小100本ほどの自家製
スポンジハンドローラー、スポンジ、布、極細筆を使う。
これらは誰に教わることも無く、自身で試行錯誤しながら編み出した田村流手法だ。
通常壁画といえば伝統的な技法は、いうまでもなくフレスコ画技法だろう。
中世の教会壁画から現代のホテルなどの壁画までほとんどがこの技法の系列だと思う。

 漆喰を重ね塗りして太陽光との反応により耐候性の強い壁面が作られていく。
イタリアなどの著名な壁画の手法である。ただ当時の制作現場はどんなだったか、
ヴァチカンのミケランジェロの制作現場は想像するほかないが、
一人ですべての工程をやっていたとは考え難い。





 その巨大さからいってもまたフレスコ技法 そのものが漆喰をこねたり、
左官が小手を大きく塗り込んだり、今で言う分業形態だったのだろう。
そのころはマスターとなる作家を頭に工房単位で制作されていたのではないか、と思う。
(もちろん、それは作者の完全なコントロールの下にではあるが) 
私の場合たったひとりで巨大な壁面にどう対応するか。
技術面も含めて大きな命題だった。
その中心は顔料と壁画を塗る手段である。
顔料を水性アクリル樹脂としたのは、水性と化学樹脂という一見矛盾する材料が
混ざり合い双方の利点が生かせる顔料が
近来目覚しく進歩し、使いやすくなってきたことだ。
発色性に優れ、速乾性があり、色を重ねても濁らず、
水分が抜けた後は強固な樹脂皮となって画面に密着し、
フレスコに勝るとも劣ることの無い強靭さを長く保つことができるからだ。
(油彩の場合当然のことだが、顔料にリンシードやテラピン油といった
溶き油を混ぜることで顔料本来の発色に
やや油性の曇りというかヤニ色の膜がかかった状態になるように感じる。
とくに古い油彩画がヤニ色でくすんでみえることが多いのはそのせいではないか、
と思う。
油膜はときに色や絵肌に重厚味を与え、品格が保たれるという大きな利点があるが
一方で照度が足りない場合は全体に重苦しさが出てしまう場合もある。
 壁画のように広い空間に十分な照度が得られ難いものには適さないのではないかと考えた。
 水性アクリル樹脂の場合かっては色数の少なさもあって、原色の発色性のよさだけが
 際立ったり、仕上がりの表面が樹脂特有の滑らかさ、ピカピカさが光と影を表現するのには
 適さないとされてきた時代が長かったように思う。
 現代のアクリル材料は色数も飛躍的に増え、そうした弱点が少なくなってきた。
 また水溶性であることを生かして、立体的な絵肌つくりができれば、
 樹脂表面の滑らかさもふせげることが自身の経験上わかってきた。
 抜群の発色性は照度の不足を相当程度カバーし、
 絵肌もデリケートで深みのある風合いが出せるような高度な顔料となった。
 塗る手段、手法についてはおいおいと語っていきたい。


 〈 2007年8月14日 〉
 
 襖絵の仕事をお引き受けするのに迷いはなかった。
 襖絵についても、禅宗についても、お寺全般についても、観光客以上の何の知識の持ち合わせもないけれど、
 自分の長く歩いてきた絵の道の先にこんな機会が巡ってくることを幸せに感じた。
 縁の糸が一筋につながって自分を導いてくれたような。
 和尚様との間に会話はあまり要らなかった。
 思い切って長年の思いをぶつけてこられた和尚さまに、何やかや世間的なことをやりとりすることは似合わない。
 創造するもの(ものつくり)にとって一番大切なことは、創ることへの意欲、情熱だ。
 それを湧き発たせるものがなくてはなにもはじまらない。
 とくに巨大な壁画や広大な襖絵のように膨大なエネルギーを要するものは、はじめに「ようし、やってやろうじゃないか」という
 心意気(意気に感じる心)と完成までの峻厳な道程に対する「覚悟」がなければ、次の一歩が踏み出せない。
 「私は自分の描けるものしか描けないんですが」
 「当たり前ですよ。描けるものを描いていただければいいんです」
 「何でも好きなものを好きなように楽しみながら描きたいんですが」
 「これを描いてもらって困るというものはありません。楽しみながら描いていただけるのが一番です」
 「描かれるものは仏陀になるか、羅漢になるか、菩薩になるか、とにかく「ひとのかたち」をイメージしています」
 「それはいい。寝っころがっていてもいい。ぼんやりと、物思いにふけっているのもいい。うんと人間くさいののがいいですね」
 
 なんだか気分がほっとした。おぼろげだが自分の描きたいモチーフが固まっていくきっかけがつかめたように思った瞬間だ。
 それにしても和尚さま、禅問答で私をすっぽりと落とし込んでしまうあたりは、さすがだわ。
 
 襖絵のあるそれぞれの空間の間にあわせ出入り口に近いところから「あけぼの」「陽光」「たそがれ」と時間帯の流れをつくり
 奥の間は「夢の中の時間」とし、それぞれの地肌の基幹色を置いた後、つぎの段階である地肌つくりに入る。
 予め決められた手順があるわけではない。おぼろげにイメージするのは天地。
 それも広大で果てしないひろがりを持つ究極の大地。地上にある現実の大地としては、仏陀が旅をつずけた
 古代のインド北部のサバンナや岩山、そしてヒマラヤに想いを飛ばして。その深さ広さに時間を塗りこめるような作業といっていいのか。
 命をはぐくむ大地の暖かさ、厳しくも美しい峰々。朝もやから燦燦とふりそそぐ陽光、そしてたそがれの静寂。紺碧に抜ける空。
 夢の時間は自然の花々や動物の繚乱の様に似合う絵肌つくり。
 幅40センチ直径7センチの手製のスポンジローラーを両手に、色を選択しながら体を振って塗りこんでいく。
 おおきな筆で書道に挑む感じ。
 気韻生動の感じも書道に近いのではないだろうか。
 でも筆に比べると含まれる水分の量も違い相当に重い。これを長時間振り回すのは結構な重労働だ。
 でも今回はスタジオの中の床に踏ん張って振り回しているのでかなり楽。壁画の現場ではたいてい地面から数メートルの高さに
 組まれた足場の上で前後に落ちないように踏ん張ってやるので両股がが一時間もするとがちがちになってしまう。
 客船「飛鳥」(現在では日本からドイツに船籍が変わり、アマデアという名前で地中海などをクルーズしている)の船内に壁画を描いたときは、
 足場を組むスペースがなかったので、天辺の船蓋からつるされたゴンドラに乗って揺られながらローラーを振った。
 体中の筋肉がこわばってしまった。
 私の場合、この地肌つくりが絵の成否を握っている。その段階に納得できる絵肌が得られないと次にすすめないのだ。
 今回は面積的には従来の壁画に比べても大きいということはないが、襖絵という、視覚的には壁画よりもまじかにみられるもの、
 という意識をしながらすすめたこともあってとくに時間をかけた。長さのことを言ってもはじまらないが、一ヶ月くらい地肌と格闘。
 「はじめチョロチョロなかパッパ、赤子泣いても蓋とるな」。
 学生のころ、飯ごう炊爨で教えられたご飯の炊き方だが、絵ずくりでもまったく同じだと今更に感じる。
 地肌づくりは序の舞であり、動へと移る静かな基本作業だ。




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