〈 2007年10月8日 〉

33体のひとのかたち
 
 絵を自分の歩く道と決めてから長いこと素描をつずけてきた。
素描とは外来語のデッサンの和訳かもしれないが、「素を描く」という行為の
意味はもっと深いところにあるように感じている。
その点スケッチという似たような言葉があるが、これは素描というよりも
寸描という字のほうがぴったりくる感じだ。
素描の一番重要な対象はなんといっても「ひと」だろう。もっといえば
「今をいきているもの」の瞬間のかたちを自分の手で掬い取るような
行為ではないか、と思う。
風景や静物にも「今を生きている」瞬間はある。しかし絵になった場合、
それはあくまでも描き手が作り出した時間だから必ずしも
「その瞬間」でなくてもよいような、気がしている。
ひとの素描はそうはいかない、一発勝負の切迫感のようなものがある。
勝手に感じているだけなのかもしれないが、素描を長いことつづけてこられた
理由の大きな部分はこの緊張感だといえる。
「素」とはシンプルのこと、言葉を変えればありのままのことである。
眼に見えるありのままを、ありのままに掬い取り、手早く画面に写し取る。


 けれども当たり前のことだが、現実には自分という有機物体を通し、
 「ありのまま」とはもはや眼の前のありのままとはまったく異なる「表現されたありのまま」である。
 ありのまま度合いにおいてはデジタルカメラにはるか及ばず、日光写真にもずっと劣る。
 それでもそのありのままにこだわるのは、自分の表現したありのままのほうが、
 対象物の何か本質的なものに迫り得ているのではないか。
 素描とは結局「素を描こうとする心」のことをいうのかも知れない。
  ちょうどスタジオに入る一年前くらいから、数十年間の間にインドや、中国、タイそして自分のアトリエで描き溜めた素描
 (ここではコンテや鉛筆などで描いた無彩色のものをさす)数百枚のうちから気に入ったもの、数十点の絞込み
 作業をおこなってきた。
 絞込みの基準は言葉にはしにくいのだが、自分の襖絵のモチーフに沿ったものといえる。
 それらの素描をヒントに改めてアトリエで習作を重ねてきた。
 禅寺の襖絵に描かれる「ひとのかたち」とはどんなものがよいのだろうか。
 選択の決断と実行、ここでもものつくりの必須条件がためされる。
 和尚さまは「ひとくさいのがいいですね」とおっしゃった。私の作品や素描をみていわれたことなのだろうが、
 これで気が楽になったとはいうものの具体的描写となれば話はべつもの、という部分がある。
 絵描きは(私はそうなのだが)、何か自然界に存在する美しいもの(自分が美しいと感じるもの)に絵心が触発されて、
 描くという行動にでる。
  「ひとのかたち」も自然界の光景であり、常にかわりつずけ揺らいでいる。その自然な形に美しいと思える瞬間をみつけ、
 それを画面に定着させようと描いてきた。今回もその延長であればいいとはいうものの・・・。
 私は仏門にはとんと縁の遠い輩なのだが、今回のお話があってからにわか仏教徒のふりをして、
 しどろもどろに般若心経を声に出して読んでみた。
 なんだか声にだすと気持ちが良い。特にハラミタというリズム音が心地いい。
 ただ門外女にはこの意味がよくわからない。難しい意味なのだろうなと思いつつこういうことに理解の深い年配の女友達にきいた。
 「そうね。絵描きさんにわかりやすくいえば、彼岸に向かって行(修行)をしているひとのポーズ(姿態)のことよ」
 とあっさりと教えてくれた。
 (和尚さま、間違っていたらごめんなさい)。
 そうか、ポーズのことだったらまかせて頂戴。なんたって四十年このかたポーズを研究してきたようなもんなんだから。
 私が追い求めてきたのは、人の形やしぐさの美しさだ。美しいと感じられる形とは結局のところ、
 今ある命を生き抜いていることが感じられる形、つまりは行をしているひとの形だ、と直感した。
 自然にくつろぎ、しかもそれが美しいしぐさになっているひとの形を、そういえばながいこと描いてきた。
 とくに安らぎの形のなかにも、そのひとの全体から何か「気」のような、人間ばなれしたスーパーパワーが感じられるようなときそこに、
 うっとりするような美といい時間に出会ったような満足感が得られるのだ。
 そんな眼で今一度自分の選択した素描を推敲、吟味する。
 具体的には一日の経過、輪転していく時間の中で日常生活のなかで、
 ふと感じられる永遠のポーズのようなものを改めて抽出し、構成を考えた。
 私の33体のポーズ・構成はハラミタ的になった。日常にごろごろところがってはいるが、美しいと見える揺らぎの瞬間だ。
 朝の村人のあいさつ。訪問。何かを挽いている老人。楽器を手にしているようなひと。昼祈るような女性。
 集まり物見をしている村人。
 物思いにふける老人。夕べ。寝袋にもたれる老人、なにかを読んでいるひと。遠くに眼をやる女性。
 誰かと戯れる童。などなど。
 
 素描をもとに本画に線描を刻み込んでいく。もとといっても真似とかトレースではない。
 まったく新しい何かがそこから生まれてくる。とくに私はひとの顔・手足を極細筆で一本描きする手法をかさねてきた。
 特に顔はその輪郭、骨格・顔立ちが1ミリでも狂えば、意図したものとはまったく異なるものになってしまう、
 ギリギリの微妙な線描を必要とする。
 それでいて伸びやかさとおおらかさが表現されていなければ失敗だ。私の絵師としての、あるいは職人の芸のみせどころともいえる。
 いっぽうでこの絵のコミュニケーション力というか、普遍性も考えなければならない。独りよがりにならないように、
 わかりやすくそれでいて深いなにかがつたえられるような



 〈 2007年10月23日 〉
 

 線を描く

 ちょうど9月から10月一杯で絵の中の線をほぼ描き終えた。線描の場合、
描く時間そのものはとても短い。
ただ絵全体のなかでの線の構成をみながら進めるので、
部分は一気に手早く線を引くが全体の構成は
じっくりと仕上げるので、その間に時間(間というのでしょうか)はかなりかかる。
書とか書画と書くときの速さ感は近いのだと思う。体のリズムで描くというか、
気韻生動という意味がそうだとすればやはり書に近い。
私の場合、洋画の分野の絵を描いていることになっているが、
気分としてはこの線描の部分に限っていえば
何か東洋とか日本画につながっていると感じる。
画学生の頃科目として「やらされた」石膏や人体のデッサンは
線を描くのではなく、面と面との接線、そこに生まれている光と影をそのまま
画紙に写しとる訓練だったように思う。
本画(完成画)も油彩筆で面取り(造形)をしていくような
技法を習得したように感じる。
ただまだまだ絵描きの卵だったに過ぎない頃(高校の美術過程の頃)、
近くに徳川美術館があって、そこで見た(たしか絵巻物だった)
日本の画の線描や鳥羽僧正の鳥獣戯画図などに、
びっくりしたことを覚えているので、もともと線描には特別興味があったのだと思う。
 
 人の面貌や形に興味を覚え、美校をでたての頃から、郷里の名古屋の大須などに建っていた旅芝居小屋に出入りして、
 楽屋に一升瓶をぶらさげて役者さんの鏡台前の姿などをデッサンさせてもらっていた。
 そのとき面貌や手足はやはり線描で描くほうが、しっくりといくようにちらりと思った。
 二十台半ばインドに暮らした頃、4年の間毎日のように、人物デッサンを繰り返した。
 そのときも面貌と手足は線を描くことで自分にしっくりとくるものがあった。
 私にとって素描とは肝の部分は線描でその成否が、絵の成否をきめるとも感じている。
 また素描は従来はどちらかといえば本画のための下絵だったり、完成作とはみなされない傾向があったと思うが、
 私自身は素描も焼き物と同じように、表現したいものがでていると自分で納得できれば、
 それは完成画としてみていただくことができるのではないかと思っている。
 線描を中心としたデッサンの完成度をどうやって、油彩画(アクリルやテンペラの場合も)にも
 生かしていくことができるか、が私の技法上の大きな課題となってきた。
 いろいろと試行錯誤をくりかえしながら、なんとか自分流の線描を壁画や絵画に生かすことができるようになった。
 まだまだ勉強途中の身なのであまりおもいきったことはいえないが、絵画とは一般的には、平面に彩色と造形を同時に
 行うアート(表現)だとすれば、線描は彩色を切り離した造形の部分となる。それでいてその線の彩色が、
 線以外の彩色と調和できるようなものでなければならないと、感じている。
 また私はいままでに出会った東西の絵画美術に特徴的な違いは何かと聞かれたら、
 「東洋には東洋人にしか描けない線描がある」といいたいと思う。
 腰の柔らかい毛筆に水分をたっぷりと含ませて描かれた線は、東洋や日本にしかないのではないか、と思う。
 絵画とは彩色と造形によって、また視覚に訴える方法でコミュニケーションをはかるということでは文字に近い。
 誰かにきいたことだが、西洋では早くから文字が絵画から分離し、
 絵は絵自身の分野で広がってきたのに対し、東洋では絵画と文字の類似性がさらにすすんで
 (紙と毛筆によることも大きい)書画という同一の分野になったという。
 それが書や水墨画そして日本にわたって日本画という分野にもなったと聞くとなんだか納得する。
 自分が線描にこだわり、線によって、あるいは筆によって造形を試みるというのも、なにか東洋人の末裔の血がなせる業かと
 ふと愉快になる。



 〈 2007年10月26日 〉
 線を描くー2
 
  こんなことどなたかがすでにいわれたことかもしれないが、絵を描くという体験をとおして、
 はじめて納得というか認識したことがある。
 今更ながらなのだが、生き物のかたち(ひとのかたちも含めて)を線描で描くとき(平面的な造形を試みるとき)、
 すべては曲線でできあがっている、ということ。
 直線というのは点と点とを結ぶ最短の線(あるいは点のつながり)だと中学生のとき習ったような気がするが、
 現実の自然の中では無機物にしか(眼で認識できる範囲ではあるが)直線はありえないように思う。
 とくに「ひとのかたち」は頭・面貌・躯体・手足すべての部分が曲線であり、その曲線の組み合わせが、人物像を構成する。
 数千の桁を超える数のかたちのデッサンを重ねてきても、
 とくに頭や面貌の曲線の1ミリの違いが、まったく違ったひとになってしまうことにいつも自分で驚かされる。
 また同時に細部の曲線の部分部分を丁寧に、緻密に線描することで
 はじめて納得のいく全体の形ができあがってくることも自分が体験してきてはじめてわかったこと。
 私の場合(絵描きは他のかたもそうでしょうが、独断でやっていることが多いのでほとんどのことは「私の場合」なのですが)、
 本画(彩色した絵画や壁画)の画面上に、下図を描いてその線をトレースしたことはない。
 下図をなぞったり、トレースすることはある程度の同じ数を生産する必要のある工芸とかの異なる分野では必要かもしれないが、
 絵画の場合、線を追うということは「創造する」ための手作業とは無関係なものと感じるからに過ぎないのだけれど。
 自分の描いた線にせよ下図の線をもういちどなぞるのは、自分にとってなんとも気の入らない作業に感じるから。
 新鮮味、驚きといった本来作者が味わえるはずの未知の魅力が薄くなる、
 そう、創造ってのはある程度リスクを楽しむ面があるのだ。
 そんなわけで今まで描きためたデッサンのうちから選択したひとのポーズ(33体の)のデッサンのコピーを横におきながら、
 画面上にはまったく新しい線を描いていく。
 デッサンはコンテ(クレヨン)で描いた線だが、本画は毛細筆。
 息をゆっくり吐きながら、じっくりとゆっくりと体と一緒に筆を動かす。
 (腹式呼吸のヨガのような状態かも知れない)。特に頭部と面貌の稜線には神経を集中させる。
 ミリ単位が鍵をにぎっている。
 線刻する彫師の心境もこうなのかな、と思ったりする。
 墨書でもそうなのか、と思うが腰が柔らかく水分をたっぷりと含んだ筆は、伸びやかな曲線を描くのに適している。
 一方で走りが良すぎるというか、筆が滑りやすい。いわゆる流暢になりやすいような。
 流暢とか上手というのは自分がめざしているものとは違う。
 考えてみれば線で平面に造形するということは実に大胆な試みだ。
 まして揺れ動いている、揺らめいているひとのかたちなど。
 大胆な試みを細心で丁寧な手の動きと体のリズムで線をとっていく。
 線に狎れてはいけない。走ってはいけない。抑えて抑えて。
 線にも体の動きと同じように「ため」が必要なのか、と感じる。
 そんなことを漠然と感じながら、自分の納得のいく線を丹念に探し出していくが私の線描きという作業だといえる。



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