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週刊シルクロード紀行NO.42 
中国 L西安 長安1


古都西安に描いた壁画 田村能里子 P2〜P3に掲載
週刊朝日百科 2006年8月6日号

シルクロードへの誘い42
古都西安に描いた壁画

 中国・西安との縁は、いまから、
二〇年前に遡る。
当時私は、文化庁が中国に派遣した
初の芸術家在外研究員として、
北京市の王府井にある中央美術学院に
短期留学していた。
留学生といっても、油彩画のキャリア
二〇年の、だいぶとうの立った学生で、
授業よりも旧市街をぶらついてスケッチ
したり、新しい絵のモチーフを探したりと、
まったくの『遊学生』だった。
 留学期間も残り少なくなった頃、
せっかくの機会だからと思い立って、
ひとりで西域の最西端、カシュガルまで
スケッチ旅行に出た。
ちょうどその頃、知人のコーディネーター
から「西域に出かけるなら、ぜひ西安に
立ち寄って、中日合作ホテルの建設現場
を訪れてほしい」との話。
そこで早春の肌寒い一九八六年三月、
北京から列車で一昼夜かけて西安を訪ねた。
大雁塔の近くの広大な建設現場は、
すっかり掘り返されていたが、現場の人は、
「ここは遺跡の塊のような場所だから、
これからが大変」という。
底に居合わせた中国側の主任建設技師
張錦秋女史から「西安で始めてのこの
中日合作ホテルは、西安が国際都市長安
として栄えた唐時代を彷彿とさせる
建築様式で設計しました。
そのロビーに、長安の歴史と中日合作の象徴となるような図柄を描いて欲しい」と、あらためて依頼された。
 旅の途中だったので、ひとまずそのことを頭に置いて、西に向かった。
カシュガルでは絵描きとして思わぬ拾い物をした。

シルクロードの砂嵐に現れて樹木が朽ちて
いくような老人の味わい深く美しいかたち。
この老人のモチーフを私はその後しばしば
作品に描いた。
 帰りに再び西安に寄り、張女史と壁画の図柄
色彩などを念入りに打ち合わせ、永泰公主の
墓室壁画や、発掘途上の秦の始皇帝兵馬俑
などを見学した。
歴史的異物に囲まれた街に壁画を残すと言う
緊張感が、だんだん高まってきた。
 ホテルの工期に合わせ、日本で描きためた
エスキース(下絵)の束を抱えて西安入り
したのは、翌八七年の八月過ぎだった。
大陸の盆地は四〇度を越す蒸し暑さ。
扉も屋根持ち打て以内ロビーの吹き抜けの
空間に、板子一枚の足場が四メートルの高さに
設置してあった。
 壁画の下塗り作業に取りかかったが、、
なにせ大きい。
六〇メートル四方の壁にぐるりと書くので、
下塗りだけで二週間以上かかった。
図柄は、東に大和の童、西に砂漠の隊商とラクダ
北に宮園の妃と官女、南にポロ球技の
人馬とした。
 夏が過ぎ、朝晩が冷え込むようになると、
冬はあっという間にきた。


十二月には零下一〇度を記録し、芋も一瞬にて凍りついて作業が進まない。
悪戦苦闘して八八年三月、完成にこぎつけた。


足かけ一年半かけた私の壁画処女作
「二都花宴図」は、唐華賓館のオープンと
同時に誕生した。
 あれから二〇年が経つ。
この間、この壁画を原画として、千葉のお寺の梵鐘を
デザインしたり、京都のお寺が西安で始めた大雁塔
近くの精進料理店のインテリアに使ったりした。
 二〇〇五年、ホテルは合併契約が終了し、
一〇〇パーセント中国資本となった。
しかし新に就任したホテルのオーナーから、
「いま西安は大規模な観光開発区となっている。
だが、壁画は素晴らしい出来栄えであり、西安市民にも
知られているので決して撤去はしない。
中日合作の唯一のよすがとして、今後とも日本とは
友好的な関係でいたい」との書面をいただいた。
 昨今、何かとぎくしゃくしがちな政治情勢だが、
民間交流の灯台としての役割をも、
壁画が担ってくれたらと願っている。













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