[ アトリエ訪問  ひとのかたち]

古代朱を思わせるさびた赤を貴重にした大画面に、風が吹き渡り、空気が流れ、光が舞う。
土や砂の肌触り、ザラッと渇いたあの感覚を感じながら眺めていると、絵のなかに佇んでいる人のように、
遠くはるかな時の流れにゆったりとたゆたう気持ちになる。
田村能里子さんは油絵画家であるが、壁画に取り組んでこれまで多くの仕事を成し遂げてきた。
主題は「ひと」。
人間が生きる「かたち」。
シルクロードで出会った老人たちやアジアの女性たちが大地に立ち、座り、植物や動物と共にある姿が
力強いフォルムで描かれている。
悠久の自然の中に溶け込んだその世界は命あるものの生の輝きに満ちて美しい。
「現場で感じ取ったことを大切にして制作に取り組みます。もちろん構想は何ヶ月も練るのですが、
現場の空間に立ってみると予定とは変わってしまうんです。
考えてきたことをそこで決断して変え、仕事を進めていく。
その緊張感と集中力が壁に向かう原動力になるのかもしれません」
何度でも後戻りできる油絵とは違う壁画での制作。
巨大な壁面に向かっていると、自分じゃない自分が手を貸してくれる・・・。そんな不思議な力が沸いてくるのだという。
46作を制作して、これから京都で47作目にとりかかろうとしている田村さんは、そのバイタリティーとは裏腹な
たおやかな印象である。
周りを包み込むような微笑は、確かな軌跡を刻んできた静かな自信とゆとりを感じさせる。
若い頃の強い自意識やストレートな情熱のかわりに、歳月のなかで熟成された豊かさが伝わってくるようだ。

世田谷区弦巻のマンションは、玄関までのアプローチに等身大ほどもある女性像のデッサンが飾られている。
広々としたリビングの手前の扉を開けると、バーカウンターや日常の生活スペースもある融通無碍な大きな空間の
一隅がアトリエになっていた。
「ちょっとした遊び心、ひと工夫が私の楽しみなんです。サリーを貼り付けたカウンターは移動式だし、
壁画制作の足場にした
板をもらって棚にしたりね」。
ヴェトナムやタイ、インドから持ち帰った家具や小物たちが置かれ、さわやかなアジアンテイストを醸し出している。
大きな画架には下塗り中にカンヴァスがある。
やはり現場からもらってくると言うベニヤ板の使い捨てのパレットに描きかけの絵の具のついたローラーが置かれ、
壁にも大小100本以上も吊り下げられているが、自分で考案して発注したもので、
「ローラー技では誰にも負けない(笑)。下地づくりから服のドレープや風などもこれで描くんです」と話す。
そのダイナミックな仕事ぶりがうかがえるようだ。
しかし、田村さんが人物の存在を掬い取るように描くその線描は、力強く生命力にあふれる一方で、時に幽けく生の
不確かさを浮かび上がらせている。
「生きているかたちを瞬時に捉え、かたちを超えた何かを表現するためにも、デッサンは普段からひたすらトレーニングを
積み重ねるようにやってきました」
田村さんはかつて、画家になる方法は誰も教えてくれない、自分の足で歩くことしかないと語っているが、
「私は絵肌をとても大事だと思っているのですが、自分だけの絵肌を見つけるのにもう何年もかかりました。
インドを旅した20代の10数年は、それを掴み取るためだったのですね」
遠回りしても、自分を見つける努力をひたすら続けること、それが田村さんの画風を作り上げてきたのだ。

壁画との出会い

1944年愛知県生まれ。小学1年生で絵を習い始めた近くの絵画教室の先生への憧れが絵描きになりたいと言う幼い夢を育んだ。
迷うことなく美術家庭のある旭丘高校に進学し画家を目指す。
学校が終わると、夜は担任の先生が私塾のように開放していた自宅にデッサンに通う熱心な生徒だった。
高3の夏、芸大に進んだ先輩のデッサンを見て、教わったやり方に疑問を持ち、学業半ばに東京に出奔してします。
「担任の先生を裏切るようなかたちになってしまったことがずっと重荷になって…。
自分なりの答えを出していつか先生に謝りたいと、絵と格闘しながらもそのことは私の中にずっとあり続けましたね」
すごく厳しいところがある、と自分を語るが、その一途な気性が早くからの目的意識につながり、
絵の道を切り開く力ともなってきたにちがいがない。
芸大受験には失敗するが、武蔵野美術大学で油絵を学び、卒業後、インドに滞在したことから大地に
たくましく生きる人々を描き始める。
学生の頃から「人」を描くことへの関心は深く、卒業後の一時期は、旅芝居の人々を描いていたこともあった。
「私が描きたかった人のかたち、美しさがインドの女たちにすべて備わっていた。
どっかりとうずくまる姿が面白く安定感があってたくましく感じたんですね。
サリーから出ているのは顔と手だけで指先などものすごく表現力があるんです。
造形的な顔も三白眼の強い目も主張があって、描きつくしきれない魅力がありました」
帰国後もインドを再訪し、、砂漠を一人旅して歩いたが、ある時見た
「壁画で埋め尽くされた町」の写真に導かれるように、インド北部ラジャスタン州にあるその町を訪ねる。
それまでアジャンタやエローラの壁画を見てきたが、砂漠の広がる何もない村に、350年の時を経てあり続けてきた
極彩色の壁画の前でゆったりと暮らす人々の姿に心を打たれ、時を越えての来る壁画に強く引かれると
同時にそれは求め続けてきた自分の「絵肌」−時の流れを埋め込み、
剥落して、風や砂、渇いた空気に同化するような-を明確に自覚することにもつながった。

 86年、40歳を過ぎて文化庁の芸術家在外研修員として中国北京の中央美術学院に留学する。
それを機会に西域を西へシルクロードを行く旅を続け、辿り着いたカシュガルで田村さんはまた新しいモティーフに出会う。
それは砂風が吹く自然に同化して老いていく老人たちだった。
「樹木が朽ちて土に返っていくような自然体の老いのかたちを、自分の線描で浮かび上がらせることが出来るのではないかと
直感したのです」
中国から帰国した年、初めての壁画制作のチャンスが訪れる。
西安のホテル唐華賓館で60mもの巨大画面に取り組むことになったのだ。
夏は40度、冬は零下10度にもなる吹き曝しの足場の上で1年半かけて制作を続けた『二都花宴図』は、
その後多くの壁画に取り組んでいく出発点路なった作品である
「壁画はそれぞれの場所で多くの人々に出会い、対話して、長い時を経ても(おそらく私が死んでからも)残っていくという使命感や
充実感がありますね。
ですから次世代の人々のことも考えながら進める作業でもあるのです」

自由な心で柔軟に

次の世代にバトンタッチするのだから、フレスコなどの古典技法ではなく、やはり現代の技術で送り出したいと田村さんはいう。
実際の制作は寒冷紗を用いて顔料はアクリル絵具で描き、仕上げにコーティングを施す。
油絵の場合でも制作過程の半分以上のエネルギーは絵肌づくりに費やし、独自のマチュールを生み出すのだが、
壁画でも自分の体質といってもいい下地には時間をかける。
しかし置かれる空間に左右されるので、効果上マチュールを押さえることもあるのだそうだ。
描画は下図を作らない主義で、固定観念を持ち込まず現場の空気から触発された生ものをとりこみたいと、
下塗りを終えた段階で現場でモデルに立ってもらい描くこともある。
「学生の頃、大切なことを山口長男先生に教わったんです。絵描きというのは技だけではない。
かたちを決めないで何に出会っても受け止められるように、心を自由にアメーバーのように柔軟にしておきなさいと」
先入観を持たずに自由な心で何事にもぶつかって体感していく、それは田村さんの生きかたにもなってきた。
壁画が完成し、最後にサインを入れるとき、巣立つわが子を見送るような淋しい気持ちになる。
「それを振り切って、背中を見せて立ち去る潔さを覚えましたね」
その子供たちと再会し、ケアをする壁画ツアーも最近の大切な仕事だ。
絵は人生そのもの。

そして自分自身であると考えている。
たとえば「赤」(田村レッドとも呼ばれる)も時の移ろいとともに変化をとげるし、さらには思いがけない色彩がもらされたり、
線描や絵肌も少しずつ変貌していく。
「人は変わるもの。歳月を重ねた、かわった自分が好きよといえるといいですね。そして変化していく絵を見ていてください…」
やわらかに生きる、という言葉がふさわしい田村能里子さんがいた。


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一枚の繪2006年1月号掲載