田村能里子オフィシャルホームページ:過去の掲載記事婦人公論

過去の掲載記事
婦人公論2000年6月7日号掲載

      おしゃれに生きる天才・森瑤子のことを、いつまでも語りたい 

           私は彼女に出会えて、本当に幸せでした。
    人生を楽しむことを教わり、彼女の前では顔も気持ちもすっぴんでいられました


 

 ◆◇◆ 会った途端に親友に ◆◇◆


 森瑤子さんが五十二歳で亡くなったのは、一九九三年の七月六日ですから、もう七年になるんですね。
 
 彼女と初めて出会ったのは、80年代の初めです。
 私の高校時代の先輩の出版記念パーティーがあって、私は司会役を仰せつかったのですが、
 そのときスピーチをなさったのが、森さんでした。
 始まる前に「司会進行をさせていただく田村能里子と申します」とご挨拶したら、
 「あら、あなたなの。私、あなたの絵を二枚も買ったのよ。高かったわ」なんて言ったんですよ。(笑)
その日はそれで終わったのですが、数日後「ちょっとあなたに会いたいのよ」と電話がかかってきてました。
ホテルでお会いして、そのとき、
「あなたの絵には風が吹いているわね。私の文章にも風が吹いているの。だから、あなたの絵、好きよ」
と言ってくれたのです。私も、
「あ、この人は同じ感覚の持ち主だな」と感じて、すぐに意気投合しました。
以来ずっと仲良くできたのは、好みや価値観が同じだったからでしょうね。
それは本当に幸せなことだったと思います。
年齢が近いこともあって、彼女の前では顔も気持ちも、すっぴんでいられました。
お互い、ものを創るという仕事をしていますから、説明をしなくてもわかりあえる部分もありましたね。

 わたしとしては珍しいことなのですが、森さんとは夫婦ぐるみでお付き合いをさせていただいたんです。
彼女のご主人であるアイヴァン・ブラッキン氏と四人で、旅行に行ったり、ゴルフをしたり。

 最初のうちは「瑤子さん」と呼んでいたのですが、そのうち本名である「雅代さん」と呼ぶようになりました。
それだけ親しくなったということもありますし、アイヴァンさんの手前、そう呼ばないといけないかな
と思ったんですね。
「僕は、作家の森瑤子と結婚したんじゃない。伊藤雅代という女性と結婚したんだ」
とよく言っていましたから。

 彼は典型的なイギリス人で、日本に長年住んでいても、故国の伝統的な生活習慣を崩そうとはしませんでした。
傍目から見て「たいへんだな」と思うこともありましたよ。
 でも森さんは、彼と結婚したことでイギリスやヨーロッパのライフスタイルや美意識を学び、
自分のものにすることができたんですよね。
もともと、すばらしい感受性を持っていたとは思いますが、デリケートなドレスを身につけたり、繊細なものを
飾ったりするようなセンスは、アイヴァンサンと出会ったことで花開いたのではないでしょうか。
小説を書くようになったのも、彼との暮らしが基盤になっていると思います。

 ただ、彼女は物書きになってひじょうに忙しくなったでしょう。
人の何倍も仕事をしながら、女・妻・母・作家の四役をそれぞれ完成度の高いレベルで保とうとしたから、
からだを壊してしまったんですね。
締め切りに追われながら、アイヴァンさんのために手の込んだ夕食を作ったりしていたんですよ。
気持ちのあったかい人でしたから、相手の望むことをしてあげたかったんでしょう。
私たちには「手抜きをしながらやるのがいちばんよ」と言いながら、
自分自身は何をするにも手を抜かず、懸命に努力してやりこなす人でした。

◆◇◆ 楽しむ天才だった ◆◇◆


 森さんから学ぶことはたくさんありましたが、とくに、人生をまるごと楽しむという姿勢には影響を受けました。
好奇心がいっぱいで、あらゆるものにアンテナを張っていました。
みんなでおしゃべりをしているときでも、普通の人なら、ぼんやり聞き流してしまうような言葉にパッと反応して、
「その話、おもしろいわ。ネタになる」とか「あ、その話、ちょっといただき」と断って、手早くメモをするのです。
そうやって書きとめておいたものを上手にふくらませたことも、すばらしい作品をたくさん創ったり、
おしゃれをしたり旅行をしたり、全て自分の肥やしにしていたのではないでしょうか。

 おしゃれは大好きでした。
真っ赤なマニキュアを塗って、大きなイヤリングをして、帽子を被って、九センチくらいのハイヒールをはいて。
自分の小説の主人公みたいな、ドラマチックなおしゃれが好きでした。
 彼女はよく言う。
“超美人”ではなかったかもしれません。
脚もわりにがっちりしていて、どちらかというと親しみやすいスタイルだったでしょう。
でも、いつも「勇気を持って、おしゃれを自分のものにするのよ」
と言っていました。
そういう姿勢が、文学の上だけでなく、読書の共感を呼んだひとつではないでしょうか。

 いつも帽子を被っていることで「ケバい人だなあ」と思われることも多かったようですが、
美容院に行く時間的余裕がなかったことも、帽子を愛用していた一因だと思います。
でも、いつもとても真似できないくらいお洒落に被っていました。

 マニキュアを乾かす時間もなくて、よく外出先へ向かう車の中で塗っていました。
いかにもあわただしい感じですが、いくら忙しくてもお洒落をしたかったのでしょう。
彼女も私も、家の中ではなりふり構わずに仕事をしていますから、たまには外出するときには、
少しでもおしゃれをしたいんですね。
女って誰でも洋服ひとつで気持ちが華やいだり、身のこなしも何となく優雅になるような気がしますから。

 私たちの合い言葉はいつも、「時間がないもんね」だったんです。時間がないからこそ遊ぶのよ、
おしゃれをするのよ、というかんじでがんばっていました。
遊ぶことを楽しみに仕事に励んでいたようなところがありますね。
ふたりで遊ぶときには、できるだけおしゃれをして、その気になって楽しもうと決めていました。
遊びのアイデアを出すのは、だいたい森さんで、
「いま、こういうプランニングしているの。能里子、あなたはこういう役目よ」というファックスがよく届きました。
彼女はアイデアが豊富で、しかも型どおりじゃないんです。

 私が蓼科のブライトンクラブの壁画を描き上げたときは、四十組くらいのカップルに一九二〇年代ファッションで
集まってもらって、サックスプレイヤーの渡辺貞夫さんの演奏を堪能しました。
もちろん、当時の服など誰も持っていいませんから、ひとりひとりに出来るだけ度の雰囲気が出るようにアレンジを
していただくわけですが。
船橋市の中山競馬場に壁画を描いたときには、みんなで帽子を被って、競馬を楽しみました。
帽子は、帽子デザイナーの平田暁さんに貸していただいたのですが、森さんはイギリスのアスコット競馬を
イメージしていたんでしょうね。

 彼女が『風と共に去りぬ』の続編である、『スカーレット』の翻訳を終えたときには、
“たくさんの男性に囲まれている森瑤子”というテーマでパーティーを開きました。
出席者は、森さん以外は全部男性。
ただし雑用係も必要だということで、私たちが任命されて(笑)カフェのギャルソンのような格好で参加しました。
そのときは、来た男性全員に私が木炭で髭を描いたんですよ。
天神髭にしたり、ダリのようなとがった髭にしたり。
彼女はソファにゆったり座って、レット・バトラーならぬ髭の男性たちに囲まれてご機嫌でした。
あのときは、彼女もまだまだ元気でしたから。

 
そんなふうに、非日常の空間を使って遊ぶと、みんなも解放されて、
とっても盛り上がるんです。
楽しかったですね。
 彼女は自宅でもよくパーティーを開いていました。
おいしいものを手早く作る名人で、缶詰ひとつでもうまく手を加えて、
凝った器に入れて出すんです。
市販のルーを使ったカレーでも、仕上げにココナツミルクを入れて
「タイ式のカレーよ」と言って出す。
白いカレーですから、みんなびっくりしてしまうんですよ。
そんなアレンジは実に見事でした。
彼女は楽しむことの天才でしたね。
魔術師のように、なんでも楽しいことに変えてしまうんです。
ほめすぎと思われるかもしれませんが、
彼女のことはたくさんほめてあげたいものですから。


 私は、九六年から三年間、主人の仕事の関係でタイのバンコクに住んでいたのですが、そのときの住まいが、
彼女の大好きなリージェントホテルの隣だったんですよ。
 ホテルに行ってみたら、ヤシの木がたくさんはえている。
暑い国のおしゃれでゴージャスな空間なんです。
その空間に入った瞬間、いかにも森瑤子好みだなと思ったら、急に悲しくなってしまって、
「なぜ、あなたはここにいないの」と、心の中で泣きました。
彼女が生きていたら、きっと何度も遊びに来てくれて、一緒に楽しく過ごせたのにと思うと、切なくて。
ホテルに行くたびに彼女のことを思い出していました。

 ◆◇◆ 私のこと、忘れないでね ◆◇◆

 森さんが入院したのは、九十三年の三月三十日でした。
胃潰瘍だと思っていたのですが、私の知り合いの先生に診察していただいたら、進行の速いがんだということが
わかったんです。
「田村さん、残念だけど、彼女三ヶ月くらいしかもたないよ」と言われたときは、ショックでした。
そんな状態なのに、森さんは病室でも原稿を描いていました。
彼女自身が、末期がんだと知らされたのは、転院する直前の五月初めです。
美意識の高い人でいたから、うろたえて騒ぐということはしませんでしたが、内心の葛藤は激しかったでしょう。
彼女自身もまだ若いし、はたち前後の三人の娘と夫を残して先に逝ってしまうのは、どんなに辛かったかと思います。

 六月の初めだったでしょうか。
病院にいる彼女から電話がかかってきて、
「あたしね、どういうふうに生きたらいいか、決めたのよ」
と言うのです。
彼女は日常の会話でも、ときどきドキッとする言葉を言う人でしたが、私はそのとき心底うろたえていました。


「生き方を決めてのよ」の言葉には「どう死ぬのかも決めたのよ」
という意味も含まれていたと思います。
そのあとすぐに、友人の弁護士さんを呼んで遺書を書いたり、
洗礼を受けたりしました。

 彼女は再入院してから、娘や夫以外にはほとんど誰にも会いませんでした。
でも、六月中旬くらいに
「おとうさんとお母さんを呼んでちょうだい」と言いだしたのです。
すぐに、伊東に住むご両親に連絡しました。
ふたりとも何も知らされていなかったものですから、
もちろん驚いて飛んでいらして。
彼女は自分の弱った姿をご両親に見られるのがいやだったんですね。
お母さんとの関係が難しかったこともあってなのか
「どんな精神状態になるかわからないから、そばにいてちょうだい」
と、頼むのです。
「大事な時間なのだから、親子だけで少しでも過ごしたほうがいいわよ」
と諭しても、「どうしても」と聞かないので、ご両親が入っていらっしゃる瞬間までそばにいて部屋を出ました。
そのときに彼女が「おかあさん、ごめんなさいね」と泣いたんですよ。
胸がつぶれそうになりました。
いつも華やかで強気の森瑤子が泣くなんて・・・・。
あれは、それまでお付き合いしていた十年と同じだけの重みをもった瞬間でしたね。

私は彼女に出会えて本当に幸せでした。いい女、素敵な大人の女でした。
ちっとも気取ったところがなくて、ざっくばらんでおおらかで、それでいて繊細でやさしくて。
派手な感じに見えましたけれども、本当はいつも人恋しくて寂しくて孤独でした。
だから、遊びのプランをたくさん考えて、多くの友人や知人を巻き込んで、まるごと楽しもうとしていたんです。
私自身は彼女がいたから、寂しくなかったのですが・・・。
森さんは亡くなる直前に「私のことを忘れないでね」と言ったんです。
こうして思いで話をしていると、彼女がはにかみながら笑っているような気がします。
彼女を語ると言うことは、彼女はまだ生きていることになりますから、
私は、死ぬまで森瑤子のことを語りつづけたいと思っています。


婦人公論 
2000年6月7日号掲載

                           このページのトップへ
               (C)Noriko Tamura All Rights Reserved