画文集
女ひとりシルクロードを描く
長安 「二都花宴図 」大壁画

〈 雪に打たれた桜花 〉
花と暦のいわれには無知な私だ、今、四月の半ば桜花が漸く華麗な舞を
見せながら散っていく。
今年東京の桜は遅めに咲きかけたうえに、時ならぬ数十年ぶりの雪に
打たれ花がしまって、その盛りが普段の年より長かったため今頃の花吹雪となったそうだ。
白く光る花びらが一斉に渦を巻いたり、いったん地面に溜まった塊がまた
吹き上がったり、はるの陽光にどこからか室内楽が聞こえてきそうな光景。
その光景が、私にはいつもの年と違って見える。
今、ちょうど中国西安での一年半近くの壁画の仕事を終えて日本に帰ってきたところである。
最後の一筆というと大袈裟だが、自分の目で全体を眺めて、問題と思われる箇所に
筆をいれ、最後にサインを入れる、その瞬間の心の光景が、目の前に広がっている
散花の様子とだぶって映っている。
その花びらの群れに自分の気持ちが乗り移っている。
 
 雪にしなって、身を引き締め絶えた花びらは、西安の雪明りの中での仕事場の
自分とかさなり風のままに身をゆだねる軽やかさは、仕事を終えた放心にも似ている。
咲くだけ咲いてあとは散るだけという、思い切りも絵描きの心根に近い。とにかく終わった。

ただ全ての終わりがそうであるように、散花が必ず新芽を幹に残すように、私の仕事も
新たな始まりであり、壁画もこれからは私の手の届かない所で一人歩きを始めていく。
散ることはすべての始まりでもある。
思い返すと、中国という新芽が私の仕事の幹に吹き出たのは、二年あまり前のこと。
それまでの印度を中心とした人のかたちを追い求める仕事から、コンパスの足を
長く取って日本との間に横たわる大陸に足を向けてみた。
それは、何もやむにやまれずといった、悲壮感のかけらもない、気まぐれにちかいもの
だったが、偶然がいつも必然を連れてくるように、私の中国体験もいつのまにか私の
人生の中では、そうでなくてはならなかったかのような重さを占める程になってきた。


 気まぐれがきっかけとなって、中国への留学となり、留学がきっかけとなって今回の
壁画の仕事につながっていったわけだが、もとをただせば全てが計画性とはうらはらの道のりだった。
とはいえ、日本に生を受け印度で船出した私の絵画航路が、そのむかし天竺とつながりの深い、
また日本とも格別の交流のあった唐の長安、今の西安に行き着いたことを思うと、
ひとりよがりではあるけれども、何かしら運命の糸のようなものがあることを感じないわけにはいかない。

そしてこれも大上段に構えるほどのことではないが、その昔、日本の文化、芸術にはかり知れない影響を与えてくれた
中国の古都の一隅に、遣唐使のかすかな末えいである日本の一絵師がこっそりと、無償の恩返しをする積もりでこの仕事を
やり抜いたことも事実である。
 以下の紀行文は中国留学時の感想を、その場その場で記したものなので、今読み返すといささか冷汗ものではあるが、
一画学生の走り書きとして臨場感を損なわないよう、あるがままの形で読んでいただくことにした。



< 中国留学 ・北京 >

文化庁の芸術家在外研修員として三ヶ月間の中国滞在が始まったのは三月。
スタートは北京の中央美術学院への体験入学からだった。
国画(中国画)や書の授業を参観したり、先生方と日中各々の絵画の現状などの質疑や意見交換といった少々お堅いカリキュラムから
得られるところも多かったが、絵心は、そうした座学よりも一日も早く待ちに飛び出したがっていた。

 三月の北京は楊樹(ポプラ)の枯れ枝と、灰色一色の冬。
それでも寮生活のヒマを見つけては、街中を歩き回った。
中央都市の顔としての北京の表通りは立派であったが、私の絵心はそそられなかった。
不案内ながらも自分の足で歩くと、生活のにおいのする方角は不思議と見当がつく。
大通りから入った民家の家並みや、郊外の農家など、足を釘付けにするような風景に随所で出会った。

 街でカイロがわりに買った焼き芋をふところに、これはと思うところで画板を構える。
ただし、ものの十分もすると素手がかじかんでしまうほどの寒さ。
大陸特有の乾いたほこりっぽい空気も日本人のやわな鼻孔には厳しい。
ここで退散してしまってはと、踏んばって描く。
 風と時に晒された土塀の黄色がなんともいえず味わいがある。
訊くとたかだか三十年ほど前のものでも、生気を超えてきたような蓄積感じる。
乾いた厳しい気候のせいだろうか。
一方、土塀の内側の家屋の屋根瓦が、それぞれガッチリと構成されていて、朽ちかけた土塀との対比が絵心をそそる。


ある日、夢中で民家の前に座り込んで描いていた。
いつの間にか目の前に赤い腕章を巻いた制服の人が二人立っている。
どうやら不振な外国人ということで警察に連行されるハメになってしまった。
何せニイハオ以外は知らないのだから、笑顔で応じるほかにすべはないとはいえ
「これははやばやとヤバイことになったな」と、署長さんらしい人に投げかける笑いも、
こわばった作り笑いになってしまう。
彼らはそんなことにはお構いなしに、殺風景な取調室でどこかに電話をしたり、
長々と相談している。
周りを見回すと、何かで連行されたらしい数人の中国人が、だるまストーブを囲んで、
背中を丸め、取調べの順番を待っている様子。
目が合うと「おい、おまえさんも何かヤバイことしたの?」といった目つきをする。
何となく、こちらは何もしていないのに妙な連帯感を感じてしまう。

昼時を大分すぎておなかの方も心細くなってきたころ、ストーブの周りにいた人たちが
ポツンとしている私を呼び込んで、饅頭と茶を分けてくれた。
ホカホカと白く大きな饅頭はなかには何の具も入っていないが、人心地つけてくれた。
クサイ飯ならぬクサイ饅頭を入国早々食べた日本人もそうはいまいから、これもよい体験と
今晩はここに泊まりの腹も固めかけたころ、英語の話せる女性警官が現れた。
「あなたの身元が確認されました。大変時間がかかってすみませんでした。
今後は留学生証を提示できるようにして下さい。」
と手のひらを返したような笑顔。
署長らしき人も、握手を求めてきた。
ホッとする一方、もう少し能率的にやれぬものかと、一言言おうと思ったが、
ここは日中友好のため我慢。

表通りの出口まで、署長以下見送ってくれた。
その道路を横断し終わるまで、見送っているので、一目散に走り出したい気持ちを何とか
抑えて時々振り返っては作り笑い。
この道路の道幅の広さは大黄河に匹敵するほどに感じられたことだった。



< 上 海 >

灰色一色の北京の街に楊樹や白樺の新緑がちらほらと輝きだした四月の下旬、
美術学院でのカリキュラムを一通り終えて上海へと向かった。
 上海の緑もさぞかしと思っていたが、この街では、緑色はほんの端役で、商工業都市特有の≪ごった煮色≫とでも
表現したくなる複雑な色彩で埋め尽くされていた。
 北京が全体によそ行きの顔の街とすれば、上海は買い物姿の顔の街。
道幅が全体に狭いためもあるだろうが、表通りから裏小路に至るまで、人があふれていて、生活のにおい、
汗が飛び交うような活気に満ちている。
この街のこの感じ、どこかに似ている。
初めてなのに懐かしさがわいてくるのはなぜだろう。
 そうだ、十数年前、自分が四年間滞在して、その隅々までつぶさにかぎつくしたあの街、インドのカルカッタにそっくりなのだ。
人種こそ違え過去には、よー六班P殖民都市として幾多の歴史の荒波にもまれ続けてきた、たたずまいは、似ていて当然かも知れない。
強いて違いを挙げれば、中心街を歩く女性の髪型、服装や雰囲気、動きに上海ではみずみずしい新鮮さを感じる一方、
カルカッタでは退廃やずぶとさ、したたかさを感じるところだろうか。
 もっとも私の絵心は、人物像であれば、後者の生活観のしみ出たかたちにひかれているので、
どこか洗練された華やかさのうかがえる上海女性には食指が動かなかった。
それよりも、租界時代に建てられたと思われる瀟洒な造りの建物の朽ちかけている姿、そこにアリの穴に入り込むように
縦横無尽に住み着いている中国人の生命力を見せつけるような暮らしぶりには、なんとも言えぬ魅力を感じた。
天窓から、破れかけたコウモリ傘がぶらさがっていたり、屋根にボロ椅子が載せてあったり、上野のアンデパンダン展に
出展しても堂々入賞しそうな、葉茶目茶振りが面白かった。


この光景だけで断言はできないが、中国の人は「美しく暮らす」ということは、
どうも苦手なようだ。
効率性、利便性に徹しているのだろうか。
一方、道路はいるも清潔に掃き清められていて、めったに紙クズ、
ゴミ類にはお目にかからない。
道路が清潔なせいか、その上に建つ家屋のデタラメな形は道から浮き上がった
別の世界のように見える。
その面白さを画紙にとらえようとスケッチしていたら、いつの間にか人が集まってきて、
誰かが椅子を勧めてくれた。
北京とは違う庶民の雰囲気。

ふと飛び込んだ、裏街の食堂で、湯気をたてているうまそうな餃子を注文。
中身はちょっと泥臭い肉の味。
空腹だったので七、八個胃にほうり込んだところで、店の人に、
何の肉か筆談できくと「蛇」とのこと。
思わず吐き気がしたが、エイ、ママヨと残りの四個をのみ込む。
異文化に触れようとしている以上、蛇くらいのことで驚いて入られないのだと
頭だけでは納得したのだった。




〈 西 安 〉

 いよいよシルクロードの玄関口西安に向かう
上海から二十時間の汽車旅で、西安駅着は夜中の十二時頃。
ほとんど真っ暗な構内に、降りた群衆がうごめき一メートルほどの狭い改札口に殺到する。
幼心のどこかに覚えのある日本の戦争直後の買出し列車のような風景。
波にもみしだかれるように駅から押し出されるが、あいにくと電報で頼んでおいた迎えはきていない。
雑踏は瞬く間に四方八方に散り、香港からの観光客と二人だけが、ガランとした駅前に残された。
さすがに一人旅の不安が頭をかすめる。
香港人がちょうど通りかかった牛車を引きとめ、何とか今夜の宿へはたどり着けそうな様子。
牛舎の荷物の間にうずくまって西安の星をユラユラと見ながら、宿についた頃は明け方間もない頃だったようだ。
 
 一夜明けた西安は、ことのしっとりしたたたずまい。
街はずれの大雁塔から新緑の街並みを見る。
紀元前十世紀以上も前から、幾多の数奇な物語を生んだ都としては、小ぎれいで企画も整然としすぎていることが
いま一つ想像力をかきたてない。
しかしそんな物足りなさを吹き飛ばすような、私の絵心を強烈に刺激するものをやはりこの都は持っていた。
その一つは郊外東にある奏皇帝陵墓の近くにある兵馬傭抗の発掘現場だった。
十年余り前に発掘して以来、日本でも、写真や、一部分の陶傭兵(陶器で作られた人形兵)が紹介されているが、
発掘現場の迫力には、衝撃を受けた。
全部で八千体の軍団はまだまだ十分の一ほどしか発掘されていないが、既に出てきた人馬は、今にも動き出しそうな迫力と
リアリティーに満ちている。

 もっとリアルだったのは、あるいは、体はすべて出ているが、顔の部分だけがまだ土面に半分埋まっているものたちの形だった。
それはあたかも長い長い死の世界への愛惜を断ち切れない、「死へのもだえ」のかたちのように切ない、しかも美しい光景だった。
 けれどもこれだけのリアリティーを見せつけられると、それを絵にする計算は成り立ちそうになかった。
ちょうどそれは、わたしがかつてインドのベナレスでの沐浴光景をえがこうとして筆が動かなかった感覚と非常に似かよっていた。
彼岸の世界には、現世の芸術や文学を拒む、圧倒的な何かがあるような気がした。

もう一つは兵馬傭抗への道すがらに立ち寄った唐三彩を焼く窯場で出会った、素焼の馬である。


その馬は大きな窯の林立する中央の窯の真上にあった。
メラメラと燃え上がる炎に支えられてるかのように、
灰色の馬は屹立していた。
すすを腹の方からかぶった姿が、えもいわれず美しい。
私は思わずこれを自分のものにしたいという
欲求を抑えることができず、窯場の責任者に頼み込んだ。

ところが、彼の話ではこの馬は窯場の守護神、炎の神として
祭られている「神馬」なので、人手に渡すことができないとの
ことであった。
「神馬」。何気なくひかれた一頭の素焼きの馬はやはり
この世のものではなかったのだ。
その出会いのロマンに私は魅せられてしまった。
西安滞在中、何度もその窯場を訪れては、粘り強く交渉した結果、
とうとうこの神馬は、日本へ私の手へと渡ることになった。
代わりの神馬を置くことで了解してくれたのだった。
 私にはこの後シルクロードへの旅が待っていたし、



相当かざばる大きさでもあったので、後日、送ってもらうことにした。
西安の神馬をわが家へ迎える場所をどこにしたらよいのか、うれしい悩みがその後私の頭から離れない。




〈 敦 煌 〉

 西安駅を早朝にたち一路西域に向かう。目的地は万里の長城の西端・嘉峪関。
丸二日のSLの汽車の旅に出る。日本のレールより重くて長いのかガタンゴトンという音が、ズシンズシンと脈を打ち、
いかにも重い台車がきしんで進んでいく感じがする。
時折桃色の花をつけた木々に囲まれた、土壁の農家が通り過ぎる。
そうしたのどかな風景と対照的に黄土の河、黄河が、左手方向に、パックリと口をあけた蛇のように曲がりくねって続いてくる。
そんな田園風景もいつの間にか途絶え、一面は、灰色のがれきの山、黄砂の広がりと、人家の住み跡もない、荒れ地が様々な様相で続く。
列車の中には絶えず中国の民謡や物語らしいものが放送され、旅人の無聊を慰めているようだ。
窓外の景色に気を取られていた私が、ふと前の席の中年の男の人を見た一瞬、不思議な衝撃を受けた。
西安のあの兵馬傭抗でもた、兵士の顔と寸分違わぬ面相なのだ。
今しがたあの大地下から掘り出された傭の持つリアリティーに心底驚かされた。

 
 一夜目の明け方、寒さのせいか目が覚めてしまった。
いつの間にか、あたり一面雪原で前々日西安の新緑は全くうそのよう。
雪原のはるか向こうに雪をい頂いた連山が不気味にそびえ立っている。
都からはるか西にきてしまったこと、そして巨大な大自然の中に
放り込まれてしまった心細さを感じる光景だ。

 ちょうど山すそから朝日がのぞいたころ、雪原の向こうから対向汽車がゆっくりとすれ違う。
行きかう前に一旦停車して、雪原に「ピー」と汽笛を高く鳴らすと、
黒煙を朝の大気に目一杯吐き出して、力強く通り過ぎていく。
元気でねと声をかけたくなるような切なさを感じる。
 あとで聞くと、あの雪山は妖魔山という由。
なるほど、やみの夜に君臨していたかのような山々にふさわしい名前だと思った。

 長い汽車旅を嘉峪関で終える。
バス待ちのためにさらに一泊した後、敦煌へ向かう。九時間のバス旅である。
左右は不毛の地価と思われるほど何もない索漠とした平原が続く。
時折、紫色の塊が点在しているだけだ。



この小さな塊は「らくだ草」と呼ばれ、不毛の地でのらくだの命綱だそうだ。
ぎりぎりのところで自然が生きるものに道をゆずる業なのだろうか。単調なミリはどこまで持つ続く。
そのうち、バスの正面ガラス一面に流砂が吹きつけてくる。
それでもお構いなしにバスは進む。
砂嵐の渦巻まく中を対向車のトラックが目前に現れ、警笛を鳴らすでもなくすれ違ってゆく。
思わず冷や汗が出るが運転手は平然としている。そのうち、流砂で前面は全く見えなくなった。
さすがに小バスは停止して砂嵐の過ぎるのを待つ。
止まってじっとしていると、かえって流砂の中にバスごと埋まってしまうような恐怖感におそわれる。
おそらく古来から砂漠で迷った人は、じっと嵐の過ぎるこの恐ろしさに耐えかねて、方向を間違えたのではなかったろうか。
流砂の論理に逆らわない者だけがこの砂漠で生きながらえたのだろう。
数時間で嵐はやみ、視界がうす白く開けてきたところでバスは再び進んだ。
目的地へ着いたころは、夜半に近かったはずだが、空は白々として明るく、時の刻みは流砂に押し流されているように定かではなかった。

〈 トルファン 〉

 敦煌から荒涼とした岩と砂漠の中をバスで四時間ほど走り、トルファンへの汽車旅の乗車地柳園に着く。
ここからトルファンまで十二時間、再び砂と石だけの光景が果てしなく続く。
時々三角形の小さな小山の群れが窓の外を走り去る。
唯一の伝達方法である筆談で、周囲の漢族らしいオジさんに聞くと、土葬された墳墓の群落であるという。
こんな不毛の地に誰が誰をどうやって葬ったのか、墓参りなど一体どうやってできるのだろうか。
想像を絶する光景だったが、あいにくこちとらの筆談力今一つで、詳しいことはわからなかった。
この光景を除けば、草木一つない抽象画の世界だった。

 一夜明けると、五月の初旬というのに四十四度を越す炎熱の盆地のトルファンに着く。
世界一の底地で季節の寒暖のさも激しいところだという。
この街からがらりと様相が変わり、同じ中国という国境でくくられて入るものの、むしろ、私が住んでいたインドや、パキスタン、
中東の広がりの中にすっぽりと入れられるような、たたずまい。
漢族中心の街では今ひとつわいてこなかった絵心が、この街を行き交う人々や、モスクなどの光景に触れ、なつかしさとともに、
むくむくと頭をもたげてきた。

 シルクロードの街などというと、ラクダの隊商だ憩ったオアシスとしてなんとなくロマンティックな街を想像しがちだが、現実の西域の街は、
厳しい自然と、決して肥沃ではない土壌で、少数民族がひたむきに生き抜いている「生活の場」だった。
だだっ広い砂地の市場には、やせ細った野菜を数個並べただけの農民や、ほんの数冊の本を積んだ本屋などが、
ポツン、ポツンと点在しているだけ。
これで一体一日の糧が得られるのだろうかと首を傾げたくなるほどの規模だった。
おまけに市場には四六時中、砂塵が舞い上がり商品は砂ぼこりにまみれている。
 それでも人々の表情は、意外なほど暗くなく、屈託なさそうに見えた。
それは太古の昔から異民族の侵入や、流転の歴史にもまれ続けてきた少数民族の開き直った自然来の生き方を表しているようにも思えた。
とくに女性の目が生き生きとして、よく働いている様子が目立った。


 この街に滞在した十日間のうちに、そうした女性二人と知り合う機会を得た。
ひとりは記念写真間に勤めている若い女性で、私のカメラが砂ぼこりのためよく
故障するので、度々飛び込んだのが縁だった。
彼女はウイグル族特有の黒い明眸と赤いほおの美少女だった。
これまた筆談で彼女の家に招待された。
石壁の入り口を入ると広い中庭は炊事場、居間を兼ねていて、大きなぶどう棚には
若葉がいっぱいに繁っていた。

 紹介された家族は父母を元兄弟とも以外にもすべて漢族で、彼女の説明によると、
自分は養女で、実の父母はウルムチにいるという。
 漢族とウイグル人が縁組することは珍しいと聞いた。
何がこの家族の背景にあるのかは私には知る術もなかったが、家族全員がなごやかで
彼女もごく自然に溶け込んでいる様子には何か救われた思いがした。
肉親と離れ、異民族の家族の仲できびきびと働いている彼女の、ウイグル女のけなげさと
勝気さを感じたのは、私の勝手な思い入れだけではなかったと思う。


もう一人は、止まっていたホテルの観光用マイクロバスの主婦運転手だった。
この人も顔の引き締まった三十そこそこのウイグル人で、観光客のわがまま勝手な
注文や要求を、ときにはなだめたり、はねつけたり、まるで暴れ馬を操る精悍なカウボーイのように、
顔かたちの美しさに似合わない気性の激しい人だった。
 ある夜、ホテルの中庭で催された民族舞踊のプリマドンナとしてあでやかな姿で愛きょういっぱいに出てきたのが彼女だと分かった時、
観光客は皆、そのしたたかな変貌ぶりに、あっけにとられ、そして大喝采を送ったのだった。


〈 ウルムチへのバス 〉

 トルファンの砂地の下には砂糖の層かと思われるほど強烈な甘さの名物トルファンワインをしたたかに飲んだ翌日、
朝早くウルムチ行きのバスに乗り込む。
七時間の山路行。里帰りなのか行商か、大きな布袋をかかえたウイグル人で、バスの入り口はごった返している。
ここでちょっとしたトラブルが起こった。
 香港人らしい若い女性五人連れと私の指定席が二重売りされていたらしく、ウイグル人のオバサン連中があとから乗り込んできて、どけという。
観光客は前日に予約を再確認してあるので間違いはないのだが、どうも運転手が二重売りをしたらしい。
 私はもめ事より、実をとって通路の布袋をクッションに即席シートを作り解決したが、五人組は、オバさんと運転手とを
交えてかんかんがくがくとやっている。
そのうち、五人組の予約が認められたらしく、オバさんたちは再び袋を背負って降りていった。
昔私が住んでいたインドでもこんなことは日常茶飯事だったが、インドだったら、外人の方が降りるケースが多かったのにと、
ちょっぴりオバさんに同情はしながらも、ようやく出発が決まりひと安心。


 周囲の乗客はその間どちらに味方するでもなく無関心を装っていた。
再び、左右には荒くれたガレキと砂の山が延々と続く。
 単調な窓外の景色と昨夜のワインの残りが聞いてきたのか、
うとうとしかけたころ、傍らの窓側で香港人女性と後ろの席の
ウイグル人が何か口論をはじめた。
動きの様子から、香港人女性の麦わら帽子で外の景色が見えないから
取れとのオバさんの苦情に対し、香港人の方は「こんな景色見ても
しょうがないでしょ」とがんばって帽子をかぶったまま。
そのうち車内が騒然となってきて、ウイグル人乗客が一斉に香港人を
指差して攻めたてるような言葉を投げつけた。
早朝からの香港人たちの振る舞いを腹に据えかねていたのか、
皆降りろといわんばかりの形相である。





そのうち気の強そうだった香港人女性が立ち上がって帽子を投げ捨てて、

泣き出してしまった。
傍観者である私はやれやれこれで一件落着と思っていたのだが、
ウイグル人たちは「やーい、泣きよった」とばかりはやし立て、
それにつれの女性四人も立ち上がって抗議しだした。
とうとう五人は、そのあと三時間の道中ずっと立ち放しで、お互いの肩と肩を
すり寄せ合って、延々と中国の歌を合唱し続けた。
その歌声は先ほど口論した時とは打って変わって哀愁を帯びた美しい歌だった。
もとをただせば、ウイグルという大陸の中の少数民族と、大陸から離れてはいるものの漢族の血を引く香港人との底の深い感情と
維持の摩擦が引き起こしたハプニングだったのかも知れない。
何事も穏便におさめようと首をすくめている自分のバスの中での立場がいかにも日本人的であることを
今更ながらに知らされた光景だった。

 やがてバスは、ウルムチの街路に入った。
トルファンとは比べ物にならないほどの大きな建物が並び、路を行き来する人々の動きにも活気があり、
ここが西最大の都であることが感じられた。
美しい歌を私の耳刻み込んだ五人組も、、ウイグル人たちも、時がとまってしまったような白夜の中に静かに降り立つと
四方に声もなくウルムチの街のあちこちに散っていった。


〈 ウルムチ 〉

ウルムチはウイグル語で「美しい牧場」という意味だそうだ。
けれどもトルファンから流砂とガレキだけのバスでの長旅の果てに着いたこの街は、そうした牧歌的な情緒というより、
人々のむせかえる体臭が充満する「民族のるつぼ」そのものだった。
 迷路のように入り組んだ市場の細い通り道の両側には、乾物・穀類が入った大きな麻袋がひしめいている。
そのフィ路のとりでの中に埋もれるように日がな一日寝転んでいる店番の老人。
天井からつるした長い羊肉を、シャリーン、シャリーンと刃を研ぎ合わせながら削ぎ落としている。
羊肉に似合いの長い顔をした肉屋。
紅、黄、青と鮮やかな原色の防止や衣に包まった白系ロシア風の子どもたちの見開いた大きなブルーの眼。
まるで幼いころ大テントの下で見たサーカスの世界がパノラマのように、次々と現れては私の眼を釘付けにするのだった。


 ただ、こうした光景はそれ自体が「キマリすぎて」いて、画紙の上にそれを
写しとろうとする意欲は沸いてこなかった。
むしろカメラの被写体としては格好の構図で手持ちのフィルムを使い果たしてしまうほど
撮りまくった。
後日それらの写真は専門家の方々からもほめて頂いた。
(肝心の絵よりもほめられるのは素直に喜べないが)のだが絵と写真とでは、選ぶ対象と
とらえ方が違うものだということを改めて感じた。

 結局ウルムチでは市場の人々と親しくなったり、生活のにおいに触れたりするうち、
二週間がアッという間に過ぎた。
絵描き、とくに「ひと」を描くものにとっては「描く行為」そのものよりも、こうした人々との
触れ合いが酒の仕込みのように大事な時間だ。
いよいよ中国シルクロードの最西端カシュガルに向かう。
当初陸路での旅を予定したが、三日半かかるとのことで、時間の節約から
結局アクス経由の空路に切りかえた。
ところが早朝街から一時間ほどの空港で待機したが、いっこうに出発のアナウンスがない。
周囲の人にきくと西が黄色いと飛ばないという。

単発の軍用機では砂嵐の中を強行することはできないだろう。
 そうこうする内に、その日は暮れてしまった。
土地の人はこんなことには慣れっこになっているのか、夜半には皆街に戻り、数名の外人客だけが空港泊となった。
その翌日も結局空港に一日中缶詰め。
 何の説明もない待機の時間がこうも長く続くと、一種の極限状態となってしまう。
外人客のうちの若いイギリス青年が二日目の夜半に突然泣き出して、空港の柱に頭を打ちつけはじめた。血がにじんでくる。
ウルムチの街で見かけた時は、端正そうな人だったのにと思いながら、ウトウトして寝込んでしまった。


三日目の昼すぎ、空港に三つの担架が運ばれてきた。
いずれも白髪がチリチリ老人たち。
ウルムチの病院で何かの手術をした人々がカシュガルに帰るのだという。
病人がきたからには飛ぶに違いない。
空はと見るとこの季節にしては珍しく雨が降り出している。
情報が全く入らない世界ではこうした周囲の光景から状況を判断する他はない。
案の定、飛行機は三つの担架をあわただしく運び込むと、
今までの待機がまるでうそだったかのようにアッサリと飛びたった。



〈 カシュガル 〉

悪気の果てにたどり着いた街カシュガル。
澄みきった青空に向かって伸びているポプラの木々。
ロバたちの咳き込むような悲しげな声。
荘重なモスク(イスラム教寺院)の大伽藍。
中国という国境によって区切られて入るものの、そこでは東洋でも西洋でもない
中洋の世界だった。

 だが、結局旅路の果てに見つけるべきものだったのだろう。
そこはここの老人たちの「美しい老い」の姿だった。
市場やモスクに何をするでもなくたむろする老人たち。
その相貌やかたちは、樹々が老い、朽ちてゆくような、自然に溶け込んだものだった。
ことばを解さない私にはそれがなぜなのかという知識は得られなかったが、
何かしら物欲や権力欲といったものには無縁の人々の自然体の生き方の「結果」が
そこに示されいるように直感した。

私の絵心を思いきり羽ばたかせた西域への旅もエピローグをむかえようとしていた。老人たちの眼は言っていた。
「ホワジャ(画家)、わしの姿を持ち帰りなさい。そうすればどこでも、いつでもわしと話ができる。
そしてわしの会えなかった人々にも会いたいものじゃ」。


  
続きのページへ
                                   このページのトップへ
                             (C)Noriko Tamura All Rights Reserved.


日本経済新聞社発行