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朝日新聞2005年5月27日掲載

〜 美の共有 〜
生きているうちに伝えないと  (田村能里子)
      
  人の心に残る芸が役者は大事(中村吉右衛門)


吉右衛門
 歌舞伎から離れて、絵を書いていると無心になれる。精神的なレクリエーションですね。      
  小さいころからだが弱くて、舞台やけいこの合間に、よく絵を描いていた。おけいこより絵を描くのが
  好きなくらいでした。
  セザンヌ、ロートレック、ピカソと、家には画集がたくさんあった。
  中でも人物画が大好きで、子供心にもlきれいだと思う絵があふれていました。
  裸婦の絵を模写して、よく怒られました。

田村    吉右衛門さんの絵は画品がある。体から出てくる自然なものなんでしょうね。

吉右衛門 何かが伝わってくる絵と、どんなにきれいでも伝わってこない絵がある。
  田村さんの油絵作品は伝わってきます。
田村    30年以上も前のこと。名古屋の大須に芝居小屋があり赤土の上に旗が何本も立っていた。
  何か心が動いて、2階にあがると、役者さんが割れた鏡の前でお化粧をしていたんです。
  生の人間の生き様、これを油絵で描きたい、と一番根っこのところで心が動いた。
  それで毎日、一升瓶を手に楽屋に通い、デッサンし続けました。
  人の形や時を経過したものに執着があるんでしょうか。

吉右衛門 歌舞伎は古いけれど、古いという言葉の中には積み重ねがある。
  名優が長年工夫して積み上げてきた芸術です。
  先人の工夫をぬぐい去って自分の色を塗るんじゃなくて、積み上げて塗るんですね。
  そこに厚みが生まれる。それは簡単には壊せない。

田村    江戸時代の芝居を再現した「四国こんぴら歌舞伎大芝居」も面白い。
  観客に役者のつばきが飛んでくる距離。
  役者の呼吸も伝わってくる。一体感ですね。

吉右衛門 あれが、江戸時代の芝居を楽しむ空間だった。
  小さな木戸を入るとまったく別世界、三味線の響きも隅々まで行き渡り、工夫を凝らした空間です。
ここで歌舞伎をやれば、100%の魅力が出せると感じています。

田村    手の届く距離で、体ごと感じる経験はいいですね。
  IT時代でも、歌舞伎だって絵だって手で作らないといけない芸術は、未来永劫続くと思う。
  なくならない、いやなくなれない。
  人が表現し、人が感じているものは人がいる限りなくならない。

吉右衛門  そうですね。歌舞伎が何とか残ると思えるのは、生の人間が作り、生のお客様に対面して
  そこに交流ができているから。
  人間がいる以上、この形はなくなりようがないと思う。
  交流といえば、お客さんの反応を意識して、こういう主張なんだ、というふうに絵を描きますか。

田村     自分の描きたいものを描きます。
  女が生きる上での姿勢、あこがれ、年を重ねた女としての凛としていたいという思い。
  インドでは、貧困を生き抜く女性のたくましさに心を動かされた。
  がーっと、おっぱいなんかを出しちゃうようなおばさんを描いた。
  タイでは、たおやかでやさしく、人の心を受け止められる女性に惹かれた。
  これが壁画となると、画の意味合いを見る人と共有したくなるんです。

吉右衛門  歌舞伎の場合、見せなきゃ、分からせなきゃいけないというのはある。
  ただ、自然体というか、その役になりきるということは、誰もいなくてもちゃんとやれなきゃいけない。
  肩に力が入りすぎると、お客さんが引いてしまう。要は無心です。
  絵を描くときにはこの無心になれるんです。
  絵を描いているときの心境で舞台をつとめたい。  

田村     最近、今まで積み重ねてきたものが、力を入れず自然に絵に出ればいいな、
  と思うようになった。
  長年鍛錬したものが、自分で納得する形で出ればいいんです。
  そこに、楽しむっていう精神が出てきて、いまでは楽しまなきゃ伝わらないよって思う。
  むろん格闘はしてますけど、力が入りすぎていると、見るほうが苦しいでしょう。
  この加減が難しくて。
  「これでよし」と区切りをつける「筆置き」っていうのは歌舞伎でもありますか。

吉右衛門  役の研究でも、演じるときでも、猪突猛進ではだめです。
  けいこは100%、120%やる。舞台は80%で止める。
  絵の方では、女房に「そのへんでやめておいたら」って言われる時、何を言っているんだと続けて
  描いちゃうとメチャクチャになってしまうんですよ。

田村     「筆置き」を逸すると、描きすぎてしまう。
  時間をかければいいというもんじゃない。
  受け手と共有するには自分の中に第三者を据えて「筆置き」を考えないといけませんよね。

吉右衛門  役者も、もう一人の自分を置いて見る冷静さが必要です。
  でも、あまり冷静だと役に入り込めない。
  どこまでやるか、どこで止めるか。
  6月も、鶴屋南北の「盟三五大切」の源五兵衛に初演で挑みますが、南北は絵画的な作家。
  血の赤、黒、女性の顔の白などが出方が南北らしくなる。
  照れや取り澄ましはだめなんですが、だからといって何でもかんでもさらけ出せばいいというものでもない。

田村     善と悪、美と醜、世の中はいつも背中合わせ。
  絵でも、下塗りや黒や緑を潜ませると、上に塗った赤が黒に響きあっていい色になる。
  物事はこうして互いを引き立てあいます。

吉右衛門  でも、画家は作品が残って、ゴッホのように生前で認められなくても、後代で認められることも
  ありうらやましい。われわれ役者は死んだら、もうその芸はなくなる。
  人の心の中にどれだけ残るかが大事になってくるんですが、
  やっぱり、役者は自分が生きている時代に受け入れられないといけないんですね。

田村     でもね、いまのようにスピードアップした時代では、画家でも同時代の人の心に残ったものだけが、
  後代に本当に残るものだと思う。
  逆に言うと、生きてる間に認められなければだめで、今だめなものは死んだ後も残りません。
  生きてるうちに、表現し、コミュニケーションして、楽しむのが、とても大事なんです。
  私は、自分の口でどうやって描いたかを見てくれる人に伝えている。
  ツアーを組んで壁画の前にお客さんを大勢連れて行って、制作秘話や方法を説明するんです。
  なぞは魅力的だけど、ずーっとなぞにして違ったことを言われるのもいや。
  みんながどんな顔で見ているか、じかにふれる経験も貴重です。


〜 受け手を意識バランス絶妙 〜 

作り手と受けてのコミュニケーションが必要と、2人は口をそろえる。
吉右衛門さんが「役者の芸は同時代の人に受け入れられないといけない」といえば
田村さんも「自作がどう受け止められているか直接聞きたい」。
一方、2人は受け手にこびるころを戒め、自分の中に第三者の冷徹な目が欠かせないとも話す。
受け手をどこまで意識するか、力をどう入れ、また抜くか。
この絶妙なバランスが美を支える。
                                                  (米原範彦)

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