田村能里子オフィシャルホームページ:過去の掲載記事婦人公論
◆壁画を生み出す「深き覚悟」。
 酷寒酷暑の地、中国・西安での壁画制作は一年半に及んだ。
 吹きさらしの現場。危険な足場での作業。
 それを支えるのは、これまでの幾つもの「決心」だ。
 若き日の恩師への「造反」。団体からの離脱。
 女としての「ある断念」。
 そして今、人生の残りの時間を意識する田村はがむしゃらに筆を走らせる。


 かつて唐の都、【長安として栄えた中国・・西安。】
冬は零下一〇度、夏は四〇度の酷寒酷暑の地でもある。
一九八七年暮れ、その西安郊外に建設中の日中合弁ホテル「唐華賓館」の現場で、
田村能里子は苦闘していた。
ホテルロビーの天井近くの壁四面に、縦一・六メートル横六十メートルにも及ぶ
巨大壁画をたった一人で描くというのだ。
途方もない大仕事である。

 当時、日本の画家でこんな巨大壁画を手がける者は珍しく、田村自身にとっても初めてだった。
快適なアトリエでカンバスに向かうのとはわけが違う。
ホテル建設と同時進行の作業であり、現場は屋根もなければ建具もない。
エアコンなど論外である。
壁の下塗りを始めたのが夏、ぎらつく陽射しをまともに受けながらくる日もくる日も
ローラーで色を塗った。
腱鞘炎にかかり、下塗りだけで一ヶ月かかった。
作業は高さ五メートルの足場の上だが、これが細かい竹を組み合わせたようなもので、
歩くたびにぐらぐら揺れた。
下にはブルドーザーが走り回り、激しい騒音と同時に、
いつ足場を引き倒すかもしれない危険が付きまとった。

 下塗りを終え、秋になって本格的に絵を描きだした。
やがて寒風吹きすさぶ冬がきたが、屋根はまだできておらず、相変わらず吹きさらしだった。
刺すような寒風の中、足場に乗ったまま、田村は十時間もぶっ続けで描いた。
建設労働者たちと同じ弁当を足場の上で食べ、ときには深夜まで描いた。
寒さで絵筆が凍った。

 年が明けても描き続け、春になってようやく画面の隅にサインを入れた。
下絵から数えると一年半、唐と大和を結ぶ絵柄の巨大壁画「二都花宴図」の完成であり、
同時に、世界でも稀な女流壁画家誕生の瞬間であった。
中国政府から日本人初の軒轅賞が授与され、数年後、天皇皇后が中国を旅行した際、
この壁画を見るためにホテルを訪問するなど、高い評価を得た。
「中国では壁画は集団制作が普通ですが、あれだけのものを一人で描ききったことに誰もが驚きました。
制作過程をずっと見てきましたが、壁に向かって絵筆をふるう田村先生は、寒風の中で戦う勇士でした」
 ホテルの設計者で著名な建築家・張錦秋女史がそう語るように、まさにこれはすさまじい闘いである。
西安の壁画によって日本での草分けとなった田村は、そのあとも相次いで闘いに挑んだ。
中山競馬場、東京・大手町のフィナンシャルセンター、横浜のMM21コンサートホール、
豪華客船「飛鳥」・・・飛鳥では、腰に命綱をくくりつけ、
十数メートルの高さのゴンドラに乗って描いた。
むろん助手は使わず、最初から最後まですべて一人で描く。
その闘いの結晶がこの十年で二十五点、日本各地やタイ・バンコクにまで残っている。

なんともすごいバイタリティーである。
こんな難行苦行に挑み続ける女流と聞けば、男勝りのアマゾネスでも想像しがちだが、
当の田村能里子は明るく朗らか、おシャレな美人であり、しかも大手商社役員夫人でもある。
いったいどこに、そんな壁画に挑むエネルギーがひそんでいるのか。

「絵の転機イコール人生の転機といいえるような気がします。絵の変わり目には、
私の場合、必ず特定の旅が係わっています。
旅があったから変わったのか、変わり目だったから旅をしたのか、あるいはお互いに五分五分の
因果を持っているのか、とにかく旅が私の絵を変えたことは確かです」
 田村自身のエッセーの一節である。
どうやらこの人を解くキーは「旅」にあるようだ。

 一九四四年、名古屋市に生まれた。
ごく普通のサラリーマン家庭だったが、小学生の頃から絵を習っていた。
夕日を描くのに夢中になり、気がつくととっぷり日の暮れた公園にひとり残っていた。
ひたむきで、こうと思えばとことんのめり込む、そんな少女だった。
中学三年、将来は画家と志し、当時、全国的にも稀だった美術課程のある県立旭丘高校に進学。
 担任の美術教師は情熱的で、学校で教えるほか自宅のアトリエを私塾として開放していた。
そこに通う生徒の中で最も熱心なのが田村だった。
一日も休まず台風で停電した夜でも駆けつけ、ロウソクの明かりを頼りにデッサンに励んでいた。
そんな田村が、三年生になって突如"造反”した。

発端は東京芸大生の先輩が夏休みに帰郷し、学校へ指導に来たことにあった。
先輩のデッサンは自分が日頃学んでいるそれとはまったく違う。
芸大にあがれていた田村にとってショックだった。
「今の授業ではダメだ」、そう思い込んだ彼女は、秋の文化祭用の自作の絵に
コールタールをぶっかけた。
優等生の田村だけが展示から外され、東京行きを決意。
 父親は反対したが母親を説得、切符を握りしめ、恩師の自宅を訪ねた。
玄関先に現れた大柄な教師に「もう授業には出ません、私、これから東京へ行きます」
と言い放った。
唖然として聞いていた教師は、たちまち激怒、
「お前みたいな恩知らずの顔は、もう二度と見たくない!」
と言うなり、田村の顔を張り倒した。
起き上がった田村は涙も見せず、そのまま名古屋駅へ向かい、東京行きの夜行列車に乗った。
「夜汽車の窓に映る自分の顔をみつめながら、東京サ行くんだと思いつめてましたね、
演歌ですよ、もう」
 最初の苦い旅立ち。
こんな意気込みで東京の美術研究所に通い、芸大を受けたが最終選考で落ちた。
翌春、再び挑戦したものなやはり最後に落とされ、私立の武蔵野美大に入学。
だが、官立のアカデミズムに染まることなく私大で「泥臭く描け」と叩き込まれたことは、
田村にとって結果的に幸運だったといえる。
 大学でも「ガリ勉画学生」としてがむしゃらに描きまくり、
卒業後は大手の美術団体春陽会に所属、二年目に中日賞を受賞した。
受賞作もそうだが、田村は徹底的に人物を描く画家としてスタートした。





















◆一升瓶をかかえて芝居小屋に飛び込み楽屋で旅役者を描く

「人のかたちを描いて、何かを言いたい。これはずっと変わりませんね。
いろいろ遠回りしましたけど」
 問題はどんな"人”の、どんな"かたち”を描くかである。
田村はありきたりのモデルなど使わず、一升瓶をかかえて芝居小屋に飛び込み、
楽屋座り込んで旅役者を描いたりした。
暮らしのただ中にいる人間を求める独特のの嗅覚と行動力を併せ持っていたのだろう。
そして、それが次なる旅を引き寄せた。
 猫も杓子も欧米を目指すのが日本人画家だが、二十五歳の田村はインドへ渡った。
過酷な自然や貧困、混沌のさ中で赤裸の生が営まれているのがインド。
「そんなことは行ってからわかったんですよ。
私って何も知らないまま飛び込み、体で覚えるんですね」
 田村は、カルカッタにアパートを借り、毎日、市場の喧騒の中へもぐりこみ
夢中になってスケッチした。
宗教の異なるモスレム地区で危ない目にあいかけたり、カーストの低い路上生活者の女性を
モデルに迎え、アパートの大家と喧嘩したりしながら、まさに体でインドを覚えていった。
ことに田村をとらえたのが、灼熱の太陽の下で、サリーをまといはだしで立ち働く
女性たちのたくましい美しさだった。
いつしかインド滞在は四年におよび、デッサンは一万枚にも達した。
「でも、本当にインドを理解し、絵のうえでも転機になったのは、その後からなんです」
 
 帰国後、自信をもって公募展に出品したインド女性の絵が落選した。
インドへ行く前は"賞金稼ぎ”と呼ばれるほど、あちこちの展覧会で賞を得ていた田村にとって
初めての落選だった。
いったいなぜなのか分らなかった。
落ち込んだ。
この頃の田村を、春陽会の先輩画家・入江観がこう語る。
「私自身フランスから帰ってきて、モチーフの転換に苦労してましたから、インドの女性ばかり
描いている彼女に、エキゾチシズムだけで描いてはいけないと忠告したことがあるんです。
しかし、田村さんは耳をかしませんでしたね」
 忠告を無視したわけではない。
同じ問いを自分自身に突きつけていたのだ。
「その後も彼女はインドにこだわり続け、やがて見事に普遍化していきました。
よけいなお節介だったと脱帽しましたよ」
と入江にいわしめるのだが、そうなるまでには深い覚悟と度重なるインド行が必要だった。
エッセーにこうある。
「自分を見詰め直すことができなければ、ここで絵筆を折ることになるだろうと覚悟しました」

◆一人歩いた中国・西域で少数民族の老人に出会い美しい老いのかたちを見た

 春陽会を脱退、もっと小さな団体に誘われ入ったが、ほどなくそこも辞め、
無所属をつらぬく決心をした。
序列の厳しい画壇、団体を離れることは、師も持たず発表の場も失うことになる。
新人にとっては勇気がいるが、さらに田村は別の覚悟もした。
その頃すでに結婚していた彼女は、東大卒でエリート商社マンの夫とある約束を交わした。
「四十歳までがんばってみて、何とかならなかったらきっぱり絵をやめます、そう言ったんです」
 いいかえればこれは、妻として女としてのある部分を断念することであろう。
何度目かの取材で、子どもがいないことに素朴な疑問をいだいた私が尋ねたとき、
快活な田村の表情がやや曇り
「普通の人々と同じ夢を捨て、二人の気持ちの中で、それに代わる絵を選んだんです。
分ります?女としての大きな覚悟を、どこかでしたんです」
 業である。
表現することにとり憑かれた人は、その業を背負いながら歩くしかない。
田村は同居していた姑に「お願いします」と頭を下げ、インドへ旅立つことを繰り返した。
リュックをかつぎ、Tシャツ、ジーンズで街や砂漠を歩きまわり、つかんだ。
「砂漠の暑く乾いた風や空気に、ああ、これが私の求めていたものだと思いましたね。
サラッと乾いた私の絵肌がそこで生まれたんです」
女流画家協会展で各賞を得たほか、八二年に昭和会展優秀賞、
翌年、現代の裸婦展グランプリとたて続けに受賞。
どれもがっしりした素足で赤茶けた大地を踏みしめるインド女性たちの姿だった。
それは国を越え、たくましく生きる女のかたちそのものだった。

 こうして日本の洋画界で名を成し、夫との約束を果たしたが、砂漠めぐりはさらに
大きなものを田村にもたらした。
壁画の"発見”である。
インド西北部、ラジャスタン地方のジュンジュヌという町を偶然訪れた田村は、
目もくらむような光景に出くわした。
砂漠のただ中の小さなその町は壁画に埋めつくされていた。
城壁から民家の壁という壁、さらに家の内部の寝室に到るまで極彩色のフレスコ画が描かれていた。
 衝撃を受けた田村は、そこにシバラク逗留して毎日壁画を見続けた。
数百年前、土地の藩主が絵師たちに描かせたというこれらの壁画は、不毛の砂漠地帯に生きる人を
いやす役目を果たしていた。
 そんな壁画を自分でも描いてみたい、切実にそう思ったが、
当時の日本には壁画に対する理解などほとんどなかった。
思いをいだいたまま各地の壁画を見てまわっていた田村に、
意外なところからチャンスが与えられた、
きっかけはやはり旅だった。

 八六年、田村は文化庁芸術家在外研究員に選ばれた。
希望する国へ短期留学できると聞き、田村は「インドからつながる国としてごく自然に」
中国をあげた。
それまで中国への美術留学は皆無だった。
文化庁職員は困惑し「フランスとかイタリアにしたらどうですか」と勧めたが、
田村は頑として譲らず、見ず知らずの中国の有名画家に手紙を書き、身元引き受け先を決めた。
田村ならではの行動力である。
こうして日本人初の美術留学生として中国に渡った。
北京で三ヶ月間の研修を終え、ひとり西域を歩いた田村は、少数民族の老人たちに出会った。
厳しい自然の中で淡々と生き朽ち木のように老いる彼らに、美しい老いのかたちを見た。
田村の画面に、インド女性たちのたくましい生の美に続き、
深い皺を刻む老の美が登場するようになった。
 そんな画家としての真の成熟を待っていたかのように舞い込んできたのが、
西安のホテルの壁画だった。
「もし失敗すれば、画家として命取りになります。
まわりは皆『やめとけ』と忠告してくれましたが、あえて引き受けたんです。
やっぱり自分自身で求めていたんですね。いままでも私が求めるものに出会えたのは、
出会うまで求め続けたからだと思います」
 以後、日本各地から壁画の依頼が相次いだ。
基本的に下絵を作らず、常に現場で描くことを心情としている田村は、
そのつど全国を飛びまわった。
孤独の中で夥しい時間と労力を費やさねばならない壁画に打ち込み、闘った。
いったいなぜ、そこまでするのか。
「カンバスの絵は収集家個人のものですが、壁画は誰のものでもなく、
そこを訪れる人すべてのものですね。描いた私自身もいつでも会いにいけます」

◆「私、死に方を決めたの」親友・森瑤子のことばに今を全力で生きようと

その作品のひとつに、東京の老人保健施設のために描いたものがある。
施設代表菊池正子は語る。
「ユートピアと題された壁画ですが、毎日それを見ているお年寄りたちが
「なぜホッと心がやすらぐ」
と言いますね。
田村さんも時々見に来ますが、いつも言うのが『ウチの子、元気?』です。
自作を"わが子”に讃える画家は多いが、田村のそれはシャレではない。
自ら人生で断念したものをそこに注ぎ込んでいるのである。
"わが子”は画家が命絶えた後も生き残り、無数の人々を楽しませ、いやし続ける。
田村能里子は命がけで壁画に取り組む、その力の源はここにこそあるだろう。






























こうして東奔西走の日々を送っていた九三年七月、田村はかけがえのない"戦友”を失った。
作家・森瑤子である。
森との出会いはその十年前、森が買い求めた田村の絵がきっかけだった。
出会ったとたん、二人は意気投合した。
感性も生き方も相通ずるものがあった。
森もまた、業を背負いながらすさまじく闘っている作家だった。
二人は「私たち、時間がないわね」と言い合いながら、仕事の合間を見てはともに遊んだ。
たがいに困難な仕事に挑むための遊びだった。

  その森が体の不調を訴えるようになり、田村は知人の医師を紹介した。
医師は田村に告げた。
「末期癌で、あと三ヶ月の命です」。茫然とした。
平静をよそおいながら入院中の森を世話した。
少しでも間があくと「どうして来ないの」と森から連絡が入った。
「本を読んで」と頼む森のベッドのかたわらで朗読した。
おさえようと思っても声がふるえた。
やがて森も自分の病をさとる。ある日、森から電話がきた。
「私、死に方決めたの。だからこれからの生き方も決まったのよ。
あなたはまだ決まってないでしょ。見せてあげる」
その言葉通り、森は仕事や家族のことなど全て処置を完璧にやり遂げ、洗礼を受け、逝った。
 目をうるませながら森の最後を語った田村は、きっぱりした表情でこう言った。
「人の命は突然奪い取られる。私自身、人生の折り返し点でそれを実感させられました。
だったら、やれるときにやっておこう、思いを伝えよう、その覚悟ができたんですね」

 森の死後、田村の壁画制作は以前に輪をかけた。
年に四、五点、せきを切ったような勢いで描いた。
九五年には、夫がタイ住友商事社長として赴任するのに伴い、バンコクに移ったが、
日本との往来を繰り返しながら描き続けた。
「バンコク市内の日本料理店に、満開のしだれ桜の壁画をお願いしたんですが、
田村さんは何千枚という花びらを一枚一枚ていねいに描き込むんです。
いったい、いつ睡眠をとるのか不思議なくらいのエネルギー打ち込みようでしたね」
                           (『日本亭』石井久子)

 昨春、タイ暮らしを終え帰国した田村を、五点もの壁画の依頼が待っていた。
目下、その一点を制作中である。
取材はその合間をぬって行われた。
手に絵の具をつけたまま取材に応じる田村はどこまでも明るく朗らかだったが、作曲家の冨田勲が
「壁画に向かうときの彼女には、インスピレーションを持った神が降臨してくるとしか思えない」
という意味が最後になって了解できた。
−神は深く覚悟したものにのみ宿る。




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1999年1月11日号掲載