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☆月刊美術 12月号掲載 
田村能里子 - 凛とつややかに - P68-P70
9月26日〜10月6日までセイコーハウスホール(銀座)で開催した展覧会の素描作品も多数掲載されています




名古屋画廊主催  「 田村能里子展 」 

会期 10月18日(金)  〜 10月26日(土)

時間 11:00-18:00  日・祝休廊 (土曜 12:00-17:00)

〒460-0008 名古屋市中区栄1-12-10

 TEL 052-211-1982

1994年作 「 沙の輪舞曲 」 218×400 cm 油絵

1994年作 「 長い午后  」   218×400 cm   油絵

が展示されています お出かけの際にお立ち寄りいただければと思います








☆TBSラジオ/ コシノジュンコさんのトーク番組 「 MASACA 」に
 9月29日(日)、10月6日(日) 午後5時〜5時半に出演します♪
 面白いトークになっていると思いますので、お時間があれば聞いてくださーい♪


☆ 2024年 9月26日(水)〜10月6日(日) 
田村能里子素描展
「 凛とつややかに 」   入場無料
銀座和光では2009年以来、15年ぶり3回目の個展を開催いたします
会場には素描作品40点ほか、2025年就航予定「 飛鳥Ⅲ 」内設置予定の壁画「四季のミューズ」4点も展示されます



今回初めての素描中心の展示を予定しています。
客船「 飛鳥Ⅲ 」の壁画「四季のミューズ」は展示された就航後は見ていただく機会も限られてしまいます
この機会にぜひみていただけましたら

 
月刊美術の窓9月号にて「社会とアート」コーナーにインタビュー記事が掲載されました。





☆月刊美術掲載 エッセイ 風の道標 第 12 回 (最終回) 風河燦燦三三自在



☆月刊美術掲載 エッセイ 風の道標 第 12 回 <最終回> 風河燦燦三三自在



☆月刊美術掲載 エッセイ 風の道標 第 11 回 2足のわらじを履いて




☆月刊美術掲載 エッセイ 風の道標 第 10 回 足場の上の450日間  全文掲載


 西安の日中合作ホテルのロビー壁画(4面60メートル)に取り掛かったのは1986年の晩秋。

四方の壁面に張り巡らされた60個の裸電球とおぼつかない足場の上が制作現場。

完成するまでの450日余りのことを今思うとき、「え、そんなこと誰がやったの?みたいな現実離れした時間のようにも感じるし、
一刻一刻が昨日の出来事のようにくっきりと際立って
思い出されることもある不思議さ。
西安は砂漠の玄関口、真冬はマイナス20度、真夏は45度という
厳しい寒暖差。吹きさらしの足場のうえでの一日12時間の孤独な作業。

部分部分に取り組んでは全体を見渡すために上がり下りする足腰の疲労。

モチーフの具現化のために一人悩んで足場の上に立ち往生してしまったことも・・・。

 そんな時ある晩夢を見ました。自分が竜の尻尾に捕まっている姿。

天にも昇る勢いの竜の尻尾が猛烈に振り回されているのにしっかりしがみついている自分がいました。

目が覚めてこれは何の夢だろう?と。絵描きとは何事も自分の都合の良い解釈をする人種、

これは今苦労している大作が絶対まくいくとの吉兆ととり、翌日からまた元気よく現場に立ちました。

ただの歴史絵巻の絵画では面白くないと、ちょっぴりいたずら心を出して、
美妃の湯殿をのぞき込む童や、
砂漠で相撲を取る蟻んこ、つがう蝶などをこっそり描きこみました。

 ブルドーザーが足元の裸土の上を走り回り、吹きさらしの天井から雨や雪、

それに黄砂が吹き込み中での荒行は88年の春漸く終わり、私の壁画処女作≪二都花宴図≫は完成。

こんな環境で無事漕ぎつけられたのは、古都に眠る神仏のお陰かと、信心のない私でも手を合わせたい気持ちになりました。

 幸い中国の方々にも評価され、翌年中国政府から優れたアートに与えられる「軒猿杯-国際特別賞」を頂くことに。以来36年間壁画もホテルも健在です。

この間、2008年の四川大地震で壁画にひびが入った時には、無償で修復作業に出かけたり、

日本でツアーを組んで訪問したり、19年にはホテルの改築に合わせて再修復をしたりと交流は続いていましたが、

近年はコロナ禍があったり環境変化で、再訪できていません。自分の壁画制作の原点に今一度立ちたい気持ちは強いのですが。



☆月刊美術掲載 エッセイ 風の道標 第9回「巨大な壁に挑む」 全文掲載

西域への初めての旅を終えて帰国して間もなく、西安で日中合作ホテルを建設中のM不動産から、

ホテルにあなたの作品をと考えていたが、ロビー4面に壁画(一面15メートル、四面で60メートルとなる)を引き受けてもらえないか、との依頼が来ました。

  インドでラジャスタン砂漠の壁画の街に出会ってから7年、いつか自分もと思っていたものの、そんな巨大な壁画をしかも異国で、と一瞬躊躇しました。

でも何か糸のような縁を感じ、結局、二つ返事で引き受けてしまいました。

 先方からのテーマは古都西安の栄華を偲ばせるもの、日中合作の象徴となるものをとの難題。

早速実寸大の模造紙を自宅マンションの地下駐車場に広げてみて、その大きさにびっくり。

手探りながら、正面は楊貴妃らしい女性と女官たちの群像を先年発掘された永泰公主の壁画を参考に、

向正面は馬技に興ずる騎馬兵を、これも出土した傭(人形)を参考にデッサンを始めました。

西面は西域の隊商と駱駝を、東面は日の出に遊ぶ大和の童の群像をイメージし、

3カ月間かけたデッサンとエスキースの束を抱えて再度西安の建築現場に向かったのは、1986年の秋も深まったころでした。

 現場はすでに外壁とロビーの漆喰壁は仕上がっており、床から3メートルの高さに作業用の足場が組まれていましたが、
吹き抜けの天井はまだふさがっておらず、
床も裸土のままでブルドーザーがそこら中を動き回っています。

足場に登るとぐらりと揺れ、その不安定なこと!ホテル設計者の女性建築家・張錦秋先生と壁画のモチーフの最終打ち合わせをし、

さっそく下塗りをと思ったのですが、肝心の日本から大量に確保したアクリル絵の具が中国の通関で引っかかっていることが判明。

合併先の西安市から手を回してもらい、漸く数日後に到着。

特別に用意したスポンジローラーで作業を始めたものの(60メートルの壁画はとてつもなく)、何層にも重ねるため、下塗りだけで2か月を要してしまいました。

 足場の下には現場の作業員がいつの間にか大勢集まっていて、

「日本から来たペンキ屋らしいぞ」 「そこのところ塗り残してるよ」と騒がしい。

そのうち誰かが足場を上がってきた、「これ」と差し出されたホッカホカの焼き芋の美味しかったこと




☆エッセイ 連載第 8 回 「 西域での出会い 」  全文掲載

北京中央美術学院への留学を切り上げ、初めて聖域(シルクロード)に向かったのは1986年。

北京から汽車で一昼夜かけて西安へ。

日本の知人から西安郊外で建設中の日中合作ホテルの現場を見てきてほしいと言われていたので、

行ってみると畑のど真ん中に土が掘り起こされ、まだ何も建っていない状況。

日本人の現場責任者から「土の中から唐代のものと思われる遺物がどんどん出てきて、工事が中断されてなかなか進まない」との説明が。

さすが1300年前世界一の国際都市長安だったこの地は、掘り返せばすごいことになるんだと納得。

ホテルに何か作品をという注文だったが、影も形もない建造物からイメージも湧かず、現場を後にしました。

 一方、西安は西域への玄関口。ウルムチまで飛行機、汽車やバスを乗り継いで敦煌、

トルファンをめぐり中国国境最西端の街カシュガルに着いたのは、陽光きらめく春の盛り。

ここを最終目的地としたのは、中国語の地名でカーシューという美しい発音に何か惹かれるものがあったから、という単純な理由だけだったのですが・・・・・・。

私はインド以来初めて「描きたいもの」に出会うことになりました。

カバブを焼くテント仕立ての店が風になびき、轆轤を回す木工細工職人や「ホシュホシュ」と

掛け声を発して行きかうロバ車など、西域の市場は物珍しく目を見張るものでした。

が、私の目が釘付けになったのは、裏通りやモスクの傍らで静かに日向ぼっこしている老人の姿でした。

白いモスレム帽をかぶり、杖を休めて話し込む姿や、長く白い髭と深く刻み込まれた皺と立体的な風貌に、思わず「ちょっと描かせて」と声をかけ・・・・・・・。

インドとは違って、物乞いもいないし、人だかり出前がふさがれるということもなく、淡々と応じてくれました。

たどたどしい中国語とウイグル語で歳を聞くと、画板に「19・・・」と書き出し、思わず、「えっ」と声をあげると、

本人はにやりと笑って「23」と付け加え、西暦年とわかりひと安心。さほど高齢ではないのだなと納得しました。

 中国の治世下で異教徒の自治区としてしたたかに生きてきた人たちの「かたち」が砂に洗われ、

砂に帰っていくような、素朴な淡々とした美しさを画面に掬い取りたいと夢中でスケッチ、そのうち紙が尽きて持っていたカレンダーの端にも及びました。

この西域への旅は私にとって大切なモチーフの源となり、日本に帰国後、数年、繰り返すこととなりました。







☆エッセイ 連載第 7 回 「 40過ぎの留学生 」  全文掲載

 インド・ラジャスタン砂漠の町ジュン・ジュヌへの旅を境に、インド行は区切りとなりました。

砂風に洗われた石壁、砂漠の中に際立つ極彩色のサリー、精悍でしなやかな顔つき容姿の女性たち、それらととことん付き合った、そんな満足感からでしょうか。

 そのころ文化庁海外研修生として応募の話があり、アジアの人を描くとすればやはり

インドからつながる中国しかないと定めて・・・・・・ただ文化庁からは中国への派遣実績はなく、留学推薦人を探すのに一苦労。

暫く第1号として北京中央美術学院への短期留学が決まったのは1986年、42歳の時でした。

 欧州や中近東からの若い留学生との寄宿生活をしながら、北京王府井(ワンフウチン)に通学が始まりました。

授業はちょっと退屈で、年の功で課外授業を許してもらい、さっそく画板を抱えて町中へ。

現代的なビル群より、旧市街-胡同(フートン)の佇まいにすっかり惹かれ、

年季の入った崩れかけた石塀や粗削りな並びの屋根瓦も何となく味があり・・・・・夢中になって歩き描くうち、

ふと興味が湧いて、家の門をくぐろうとした途端、腕を両側から掴まれました。やばい、私服警官だ!ずっと尾行されてたんだ。

あいにく身分証明書の持ち合わせはない。警察署に連行され、通訳が入って家宅侵入罪とスパイ容疑であると。

散々搾り上げられて解放されるまで丸一日、その長かったこと。

 ダルマストーブを囲んで別の容疑者らが輪を作って並んでおり、自分もその一人。

そのうち誰の差し入れか、白い饅頭が回ってきて、「お互いついてないなあ!」なんて変な連帯感も生まれたりして。

日本からの留学生だと判ると手のひら返しの応対で、今から考えると「よい時代」だったなと思ったり。

一方、寄宿舎では火事騒ぎもあり、アフリカ人留学生が鍋を熱したまま外出、そこから煙が出て辺りに充満、

皆が手をこまねいているので、私が椅子などを積み上げて天窓から部屋に入り、消し止めて事なきを得ました。

 皆から表彰ものと称えられても何ということもなく、このまま留学を終えるのでは勿体ないと思いついたのは、敦煌・西域への研修旅行でした。

何の準備や旅程も立てず、当てずっぽうに一カ月間西域をぶらつこうと、楊柳(ヤンスー)の花が舞う早春の頃、

北京から西安行の夜行列車に一人で乗り込みました。

そのたびはのちのち私にとっての絵画人生の大きな分岐点となるような意味を持ちました




☆2024年月刊美術1月号掲載 エッセイ 風の道標 第6回「再び楽しいもがきの時代」全文掲載いたしました。
 スクロールで下に下げていただくとご覧いただけます。


月刊美術2月号掲載 P135 ☆今月の注目展☆

Founded in 1975 – 東邦アート :東京都芝公園3-1-14 FLEX公園1階
会期: 2月13日(火)〜3月13日(水) 会期中無休 11時〜18時30分(最終日は16時まで)

創業50年を感謝 同時代を彩る5作家が競演

田村能里子出品作品 「 凛として視る 」





月刊美術1月号
エッセイ 連載第6回 「 再び楽しいもがきの時代 」 全文掲載

夫とともに4年ぶりにインドから日本に帰国したのは50年前。

どこかで緊張していたのか全身から力が抜けたような安心感と穏やかさに包まれました。

それもつかの間、当時世界でも一番忙しいといわれる東京の生活の渦の中に巻き込まれ、

何事もスケールの大きな大陸に比べ、家の中一つをとっても目の前の壁のシミが迫ってくるようなせせこましさに戸惑いました。

 それでもガレージをアトリエに仕立ててインドから持ち帰った資料などを参考に油彩画に取り組み、

74年に初めての個展「印度の女たち」を文藝春秋画廊(東京・銀座)で開くこととなりました。

絵の買い手もつき、それなりの反応は得られたものの、デッサンに比べ、

油彩画のリアリティが今一つという声も聞こえてきました。

やはりテーマのリアリティは日々薄れていき、もがいてもしっくりこない。

思い切って夫と姑の許しを得て、今度は一人でインドへの取材旅行へ・・・。

 滞在中は以前行けなかったデリーやアジャンタ・エローラの石窟寺院、

変わり種ではプシュカール砂漠でのラクダ市などをめぐり、肌身で感じるインドの感触を取り戻しました。

3週間くらいのそうした旅を7,8年繰り返したでしょうか。

私にとってそれは苦行でも何でもなく、時には友人との楽しい交流であったり、息抜きでもあり、楽しくもがいていた時間ともいえます。

 40代に入る直前、インドの街角で手に取った1冊の写真集「インド・シカバティ地方の町」には

壁画の街ジュンジュヌが紹介されており、急遽そこに向かうことに。

デリーから出発した寝台車で偶然にもジュンジュヌ学園の学長夫妻と乗り合わせ、

話が弾んで学園内の宿舎に滞在を進められた。

十数時間の汽車旅の後降り立ったのは、ラジャスタン砂漠のど真ん中、質素な駅舎。

「車が迎えに来ていますから」と言われて乗り込んだのはロバの馬車。

 びっくりしたのは翌朝のこと。

私が寝ていた寝台は壁に畳まれて黒板代わりになり、部屋は中学生の教室に様変わり。砂漠の融通無碍な学校でした。

案内されて街に出ると、辺りは一面が写真で見た通り、壁画で埋め尽くされており、

200年くらい前東西交易で巨万の富を蓄えたこの地の藩主は、不毛の砂漠を色彩の楽園にしようと漆喰を使って壁画を描かせたとのこと。

テーマは宮殿の内部や軍隊の隊列、ロンドンの風俗や蒸気機関車など世俗的なものでした。

ただ古びた壁画のある佇まいは「いつか自分も描いてみたいな」と思わせるだけの素敵な迫力がありました。





月刊美術12月号
エッセイ 連載第5回 「 デッサンを磨く 」 全文掲載いたします

 インド滞在中の最大の問題は水。

もちろん水道水はあるけれど、日本人には不適とされ、ペットボトルのない50年前では2度煮沸して

さらに濾過機に通して飲料水にしていました。一方家事のほうはというと、駐在員家庭では

コック兼手伝い、掃除、洗濯、門番など数人を雇わねばならず、妻は自分で家事をすると出身を疑われ、

結局雇用人を監督することだけが役割となり、日本の主婦業は殆どない状態。

監督も慣れない日本人には難儀なことだけど、時間的余裕はたっぷり。

外でスケッチが無理とわかり、この時間をモデルデッサンに使おうと・・・

幸いモデル代は考えられない安さで、好みの人を思う存分に使うことができました。

 おまけに出会ったモデルは、どれも私のイメージにピッタリ。

夫を送り出した後、NHKのラジオ体操のように毎日きっちりこつこつとデッサンを重ねていきました。

この地のモデルはアーリア系の骨太でスケールの大きい骨格、しなやかに引き締まった筋肉、

豊かな手足の表現と、描く意欲を沸かせる条件が揃っていました。

特に頭部の立体的な風貌、額の線、三白眼の視線、分厚い唇など情熱を秘めて謎めいた表情に飽きることはありません。

 お互いに交わす会話は不自由でしたが、時間を重ねるうち、彼らの心の内を覗けるような感じになって・・・。

クーラーをつけていても30度を超す暑さの中、手の甲から汗が画用紙に滴り落ちて、

熱気がそのままシミになったり、一条の風がスーッと通り過ぎた時、
モデルの顔つきがふっと緩んで思わず掬い取りたくなる瞬間もありました。

 モデルとの間に難儀がなかったわけではありません。

次回に来る予定を約束しても、待ちぼうけをされたり、

本人はその翌日に来て何の言い訳もせず前のポーズを勝手にとったりして。

人を通して聞くと「私は約束をした覚えないし。出来ればと言っただけ」。

そういえば確かにヒンズー語では「アジ」は「今」を表し、「カール」は今以外の時、例えば昨日か明日を表すとか。

天才的な自制の感覚が、所轄インドタイムに繋がっているのかと納得してしまいました。

 デッサンに明け暮れして、その枚数も千のけたを超えるころ夫に帰国辞令が出ました。

あの頃は帰国休暇制度もなく、本当に4年ぶりに日本に帰ることとなり、

年月の重みも背負ってデッサンも帰り支度の中に入りました。日本では必ず役に立つ日が来ると信じて。




月刊美術11月号が発売されました
エッセイ 連載第4回 「柔らかな街 」 全文掲載

 商社勤め夫の赴任辞令でインドのカルカッタ(今のコルカタ)に慌ただしく旅立ったのは54年前。

裸電球がぶら下がった空港で、日本から持参の化粧品などを入念に調べられ迎えの車に乗り込んだのは夜半過ぎ。

町中に入ったあたりかっら道の両側に無数の白い袋が並び、うごめく中身が人と分かった時、

街全体が何か柔らかい寝床に思え、異郷の地に降り立ったことを強く感じた。

もっとも実際に自分の足でこの地を踏んだのは翌朝のこと、

案内された公園で車から降りようとした時、白いサリーを纏った三白眼の鋭い視線の

女性たちに囲まれ、物乞いの子供たちの黒い手が一斉に差し出されて、

土を踏む第一歩がなかなか踏み出せなかった記憶は昨日のことのよう。

 油彩画を志す友達が次々と欧米に向かって行ったのに引き換え、

インドという場違いな地に来てしまった後ろめたさを感じながら、

「ひと」ならどこでも描ける、転んでもただでは起きないぞ、とファイトを沸かせたのは、まだ若かったせいでしょうか。

住居のフラットも決まり、日常生活も始まったころ案内人を雇い、スケッチをするため画版をぶら下げて町中へ。

画版を広げてスケッチを始めるとたちまち黒山の人だかり、前がふさがれて描きようもない。

ある場所では案内人がモスレム(イスラム教徒)と別れると、激しい声が飛び、そこを追い出される羽目に。

第3次印パ戦争の直前でしたが、ヒンズーとモスレムでは居住区が違うらしく複雑な国の事情を肌で感じました。

 ある日路上で乳臭い少女を見つけ、自分のフラットに連れ込み、デッサンを始めました。

少女はいつの間にか眠りこけてしまい、その寝顔の美しさに夢中でコンテを走らせていた時、激しくドアをたたく大家さんの声が。

「あなたは家に入れてはいけない人を入れている、すぐに追い出しなさい!」

 ドアを開けると少女は逃げるように出ていきました。

大家さんからアウトカーストは絶対に家に入れないこと、使用人も含め大家さんに必ず承認を得ることを誓わされました

難儀は続きます。滞在して間もなくおなかがずきずきと痛み出し、計ってみたら高熱が・・・・。

日本人のお医者さんに診てもらうとデング熱とのこと。

治療方法はなくただ毛布に包まって10日もすれば「よくなる人はよくなるだろう」と。

なんともこの国らしい病気、でも汗をびっしょりかいて10日経ったら本当にケロリとよくなりました。

 異国の荒っぽい洗礼を受けた私は、ここでしか出来ないことをしようと、

家に出入りしているヘルパーさんのデッサンから始めることにしました







月刊美術10月号が発売されました
エッセイ 連載第3回 「楽しくもがいて 」 全文掲載

名古屋の実家近くの大須にあった田舎歌舞伎の芝居小屋にスケッチに通ったのは58年前。

赤土のだだっ広い土地に、大きな掛け小屋がテント布で組み立てられて、
なんだか劇の中に劇があるような不思議な佇まい。

小屋の周辺には役者の名前や、出しものの幟が並び、
頭に手拭いを巻いた着流しの木戸係が行き来するちょっと非日常的光景。

楽屋内は古びた畳に布団が積み上げられて雑然とし、

錆びた鏡台にこれも曇った手鏡をかざして役者さんが白塗りを・・・。すぐ横には鬘を並べた棚。

時には一升瓶を差し入れ「ちょっとお願いします」と役者さんの傍らに座り込みデッサンのコンテを走らせました。

「そこのドーランとって」 「もう出番だからここまでよ」、皆さん気前よく学生上がりの「卵」を受け入れてくれた。

人情とは有り難いもの、でも結構な期間小屋通いは続いたものの、

デッサンから起こして40号の油彩画にできたのはたった1点だけ。

結局屋内の人物像は異様さだけが際立ってものにならず、「芝居小屋の周辺」だけがどうにか出来上がりました。

小さいころから「お絵描き」に通っていた実家近くにアトリエを持つU先生に見せると、
「この土の赤はS会の先輩木村荘八さんの赤に似てるなぁ」と。
自分の絵の「赤」を初めて意識。

これが励みとなって、今度は近所の神社の縁日を覗きに出かけ、赤土の道の両脇に並ぶ屋台と出入りの客、

そして夕焼けと「赤」を基調としたマチエールに取り組みました。

もがきにもがいてそれも楽しく、漸く公募展に入選し、賞もいただいたり、

新聞にもポツポツと紹介記事が出たりと、なんとなく先が見えてきたと思えたその矢先、

学生時代東京で知り合った人との結婚が決まり、名古屋を離れ東京に戻ることに

(突然話が「もがき」から一転してゴメンなさい)。それが思わぬ展開となりました。

 商社勤務の夫にインドへの転勤辞令が出て、東京で旅支度をしてそのまま赴任先のカルカッタ(今のコルカタ)へ。

新婚旅行がインドだった人、手を挙げてみて。そんなにいないと思うけど、今元気に生きていることを、お互い喜び合いたい気がします。



≪ 作品名掲載 : 風の彩り 3号変 ≫


月刊美術9月号
エッセイ 連載 「 風の道標:第2回 武蔵野にさまよう 」 全文掲載
≪ 作品名掲載 : 風の愁い 3号 ≫


第2回 武蔵野にさまよう

親を無理やり説得し、名古屋から勝手に焦がれた「とうきょう」に出てきたのは62年前。

美大に入り、都会生活を始めたものの、受験という目的意識の無くなった絵描き志望の生活は、

一転して緊張感のない緩んだ紐のようになり・・・。

石膏や牛骨などのデッサンは高校時代と変わり映えせず、東京の中心はパリのモンマルトルに画架にたてて、

といったイメージとは全く遠い、人でごった返すせわしない坩堝。

 日常は武蔵野の緑林と川に囲まれた鷹の台校舎と秋津の畑の中に

ポツンと立つ長屋風のアパートとの地味な通学生活。

夢から現実に引き戻された時間の中で起こったことといえば、部屋でパレットナイフで絵の具を削っている時、

ナイフが滑って左手中指を深く切り、出血が止まらない。

思わず隣の部屋に助けを求めると、住人は水商売らしい秋田美人。

どこで覚えたか手際よく傷口にビールをかけ、血止めしてくれた。

 その人の名は忘れもしない「×××とめ」さん。私の頭には「血液止め」と記憶され今でも残る傷跡を見る度、

その節はありがとうございましたと心の中で感謝。

指の傷も癒えた頃、学友から高田馬場の酒場外で似顔絵かきのアルバイトの誘いが。

学校では人体デッサンや解剖学に興味が湧き、静物より「人のかたち」に魅力を感じ始めていたところ。

親の仕送りを軽くし、勉強と実益(?)とばかりに飛びついた。

 戦後の雰囲気の残る界隈はUの字にスタンド居酒屋が立ち並び、おっとりとしたほろ酔い客でにぎわって、

ママさん「学生アルバイトなの。描かせてやって」「じゃ男前にね」。

のどかな時代だったのか、ご機嫌なお客が多く、時には学費にね、と奮発してくれる人も。

サービス精神不足で「ちっとも似てねーよ」「俺ってこんなん?」と突っ返されたり、

そのままポケットにねじこまれたりのちぐはぐもあった

 画学生の時間はあっけなく終わり、4年ぶりに名古屋の実家に。

とりあえずの絵の具代や画材費を稼ぐため、

場所や道具のいらない「お絵描き教室」の先生の口をいくつかおさえた。

さて何を描くか、根が楽天的なせいか考えるより行動が速く周囲の人のデッサンをし、

絵らしく仕立てることをはじめてみたものの、何か足りない。

自分らしさをもっと出せるものがないか、自分にしか描けないものがないか、ともがいているうち、

鶴舞公園の先の大須にある旅芝居の掛け小屋のことがひょいと頭に浮かんだ。



◆月刊誌:月刊美術2023年8月号 大画面に宿る情熱と、鼓動-現代洋画家の壁画という特集のなかに
 - 知りたい美の秘密 -対談インタビューに田村能里子が出ています
 また新連載としてエッセイと、絵画 - 風の道標 -がはじまりました
 (掲載内容の詳細(内容文)につきましては後日ホームページに掲載予定しています)



〖今月の表紙:田村能里子 パペットと遊ぶ  4号変 〗

 今月の表紙は、洋画家田村能里子さんによる描き下ろし。
 タブローと並行して国内外で数々の壁画を手掛けてきた画家は、自ら壁画家となのるように、大画面への思い入れもひとしお。
 巻頭特集では土方明司氏との対談をとおして、かつてインドで出会ったブオノ式壁画をきっかけに、中国・西安にはじまった
 制作とその魅力などについて語る。
  周知のとおり田村さんは、1970年代からインドに長く暮らし、中国シルクロード地方への取材旅行が長く続いた。
 その体験が田村芸術の根幹となり、そこに暮らす人々が主要モチーフともなっている。
 表紙画≪ パペットと遊ぶ ≫はもとより、異国情緒あふれる画面から伝わってくるのは、
 素朴さと気高い精神を宿す砂漠の民ならではの強靭さ。
 「以前シルクロードを旅した時、ポプラ並木の傍らで憩う老人に出会いました。
 樹木が朽ちて自然に帰っていくような、悠然として、それでいてしたたかな生命力を湛えている姿に美しさと、
 まるでパペットと戯れてきたかのような自由さを感じました」。
 田村さんはそんな刹那の感情を本市に託し描いた。

 ※本号から新連載「風の道標」(64頁〜65頁)もスタート。華麗な作品とエッセイをお楽しみください。(編集後記より)


月刊誌:月刊美術8月号NO575 (発行サンアート・発売実業之日本社)

☆14頁 大画面に宿る情熱と鼓動:現代洋画家の壁画
☆26頁〜31頁 土方明司の知りたい!美のヒミツ 土方氏と6頁にわたり対談内容と壁画数点の写真が掲載
☆64頁〜65頁 「 風の道標 新連載エッセイ -第1回 おおセラビー!?-」
 描き下ろしのエッセイと作品を掲載 (風のゆらめき : 3号)
















◆◆◆ 風の道標 ◆◆◆
第1回 おおセラビー!?

「いつ頃から絵描きさんになろうと思ったの?」若い頃周りの人からよく訊かれた質問です。

「さぁ、それがはっきりしないのよ」と答えてはいたものの、50年以上も同じことを鈍くさくやってきた今、

 ちょっと振り返って確かめたい気もして・・・そんな他愛もない話にお付き合いの程を。

 殆どの親たちが切り詰めて生活していた終戦直後。

名古屋では分不相応と思われるくらい、子供のお稽古ごとに熱心な風潮があり、

我が家もその例に漏れず「お絵描き」に通うようになったのは、8歳位の頃。「褒められて育つ」という言葉。

パイプを咥えて花束を抱えて画室に出入りする、お洒落な先生から褒めてもらいたくて通ううち、

市のコンクールで何度も賞を頂き、高校受験はごく自然に県立旭丘の美術家庭となりました。

と、ここまでは自慢話のように聞こえますが、通じの自分を振り返ってみると絵のことしか眼中になく、

世間知らずで幼稚な偏った子供だったな、と思い当たります。

 何しろ面接試験で「入って何がしたいか」との質問にただ「とうきょう」とぼんやり答えた記憶だけが・・・。

瓦礫の山から立ち上がったばかりの名古屋から見れば東京はパリのような夢の街。

何かをしたい、というより東京に行きたいとピント外れの回答をした生徒は何とか入学し、

油彩画家でもあったF先生の指導を受けることに。

先生の熱心な指導は学校に止まらず、自宅をデッサン教室に、自分も無遠慮に上がり込んでコンテ(クレヨン)を握りしめていました。

当時名古屋は伊勢湾台風など大きな災害に見舞われましたが、そんな非常時でも停電でも

蝋燭に揺れる石膏像を追いかけてデッサンするという馬鹿げたことをやっていました。

でも先生が「そんな無駄なことはするな」と止めなかったのは、

技術というよりデッサンをする志のようなものを大切にしろ、という教えだったのかと。

 そうこうするうち大学受験が迫ってきました。

3年生の夏、夏期講習に来た藝大生の先輩が披露したデッサンに圧倒され

(その時は、「洗脳されている」と感じたのか)、それがやがてF先生の指導に対する疑問に。

思い込みの激しい生徒は、習作展に油彩ならぬコールタールをぶちまけて反抗するまでになりました。

その秋、授業を放棄して東京の絵画研究所に行くため、汽車の切符を握りしめてF先生宅の玄関先に、

言い訳半ばで張り飛ばされるように追い出された私は夜汽車に飛び乗って、いっぱしの歌謡曲のような場面。

若気の至り、その恰好悪さと言ったら言葉になりません。

級友に助けられ何とか高校は卒業できたものの、

先生にいつかお詫びをとの思いが澱みのようにたまっていました。

10数年後、F先生と東京でばったりと再会でき、心からのお詫びを果たすことが出来ました。

30数年後、母校の同窓会から社会に貢献のあった人顕彰する鯱光賞をそんな私がいただくことに、

人生は当たらない天気予報のようなものだけど、こんな外れは大歓迎、おおセラビー?! (人生はなんて素敵)



     
    




                                            (C)Noriko Tamura All Rights Reserved

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ファンケル銀座スクエアリニューアル1周年記念 壁画家田村能里子・ファンケル創業者池森賢二インタビュー (上記画像をクリックくださいYouTubeのページへ移動します) ☆ぜひご覧ください☆
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更新日 2024年12月08日
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更新日2016年7月21日