田村能里子オフィシャルホームページ:過去の掲載記事婦人公論
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東昇
(東芝エレベーター(株)発行)
2000年WINTER号
見城美枝子のカフェテラス

【 壁画はみんなのもの、その場所に行けば、誰でも好きなときに見られる 】

■世の中で何かやるとすれば絵しかないだろうと思っていた。

見城 田村さんは、中国の西安のホテル「唐華賓館」や豪華客船「飛鳥」をはじめ数多くの
壁画を制作なさっていらっしゃいますね。
壁画というのはスペインのアルタミラやフランスのラスコー、
またアフリカのタッシリ・ナジュールの壁画などを見てもわかりますように、
人類の絵画の原点だと思うのですが、お恥ずかしいことに現代の、それも日本の壁画については
あまりしりませんでした。

田村 それはむりもないんですよ。
ヨーロッパやメキシコの壁画は皆さんよくご存知ですけれど、日本で壁画が盛んになってきたのは
ここ十数年来のことなんです。
自慢するわけでもなんでもないんですけれど、数だけからいえば私が
一番たくさん制作もしているらしいのですが・・・。
そもそも日本は住居が狭いので、壷や花を飾ることはあっても、壁画を絵画で埋めるということが
難しかったんですね。
古墳や法隆寺などの壁画は別にしまして。

見城 寺院建築は中国から入ってきましたから、壁がありますが、日本の住居は神殿造りから
来ていて壁がないんですよね。
書院造になっても三方が障子、障子、襖となっていて、残る一面が床の間と違い棚なんです。
結局、自由になる壁がないんですね。

田村 ですから、屏風絵とか襖絵はありますけれど、これは建具ですから、
壁画とはちょっと性格が違いますよね。
現代の家屋は多く和洋折衷で壁がありますが、たいていタンスや本箱がびっしり
押しつけられていて、結局、壁がないんですね。
そういうわけで、日本では壁画が育たなかったのだと思います。
日本も住空間が豊かになって、まずはホテルやオフィスや病院など公の建物で壁画をと
いうことになってきたのだと思います。

見城 田村さんはその最先端に立ってお仕事をなさっているわけですが、
そもそも田村さんが画家になられたきっかけは何だったのでしょうか。

田村 私が育った名古屋はお稽古事が盛んなところなんです。
私の家もごく普通のサラリーマン家庭でしたけれど、お絵描き、そろばん、お習字、お茶、お花と
一通りのお稽古事はみんなやりました。
その中で長続きしたのが絵だったんです。

見城 絵がお好きだったんですね。

田村 私が世の中に出て何かやっていくとすれば絵しかないだろうと、そのくらい夢中に
思っていました。
それで高校も県立高校で一クラスだけあった美術課程に入りましたが、そこは東京芸大を受ける
人たちが集まる受験校だったんですね。

見城 田村さんも芸大を目指されて?
芸大受験と言いますと、どんな勉強をなさったのですか。

田村 私が習ったF先生はとても教育熱心な方で、ご自分のアトリエを解放して、
授業が終わったあとも指導してくださっていたんですね。
私もそんな先生に傾倒して、先生のおっしゃることは一言一句も聞き漏らすまいと言う
気持ちでいました。
ところが三年の夏休みに芸大に入った先輩たちが指導に来てくれまして、その話を聞いたり、
描いた作品に触れるうち、今みたいに基本ばかりにこだわっていたのでは自由闊達なテクニックが
身に付かないのではないか、芸大に入れないのではないかと、
先生の指導方法に疑問を抱いてしまったんですね。
そうなると、若さゆえの性急さで、もうこんなところにじっとしてはいられない、
今すぐ東京に勉強に行くしかないと思い込んでしまって。

見城 えーっ。まだ高校生ですよね。それでどうなさったのですか?

田村 まず親を説き伏せて、それからF先生のお宅に伺って、東京行きの切符を見せて
「東京に行って勉強してきます」と言ったんですね。
あまり唐突なことなので、先生もはじめは何のことかわからなかったらしいんですが、
事情がわかった瞬間はもう往復ビンタが飛んでいました。

見城 まあ、劇的なシーンですね。

田村 その勢いで、その日のうちに夜行列車で東京に出てきてしまいました。
それで受かれば、私の行動も快挙だったのでしょyが、結果的には芸大の受験に
失敗してしまうんですね。

見城 先生になされば、ご自分がきちんと指導して入れさせてあげたかったのではないでしょうか。

田村 そうだと思います。
それで、先生にも顔向けできない、このままでは名古屋に戻れないと思ってしまって。

見城 若いから一途なんですね。

田村 その先生とのことが頑張れるエネルギーになったと思うんですね。
幸い、武蔵野美術大学の、それもちょっと特殊な実技専修科に入学することができました。

見城 ご専門は油絵でいらっしゃいますよね。
油絵を選ばれた動機はなんでしょうか。

田村 高校のとき、彫刻、版画、水彩、油絵と一通りやるんですね。
それで最後に油絵を選んだわけです。
なぜ油絵だったのかなあと、この頃考えるんですけれど、体質というか血が選んでいるとしか
いいようがない感じなんですね。
だからこそ、これまで迷うことなく油絵をやってきたんだと思います。



■女性の形と砂漠と壁画に出会ったところ、インドは私の感性の泉

見城 血が選ぶ。とても興味深いお話。
ご卒業後はどうなさったのですか。

田村 卒業しても絵描きの卵の卵の卵ですから、仕事なんてないわけです。
でも何か自分らしいもの、自分ひとりにしかないものを創り上げないと、世の中で存在を
示すことはできないと考えていました。

見城 模倣ではなく、自分の芸術をどうやって生み出していったらいいのか、
芸術活動というのは、それに尽きるわけですよね。

田村 ただそれも漫然と描いているだけでは得られないと思うんですね。
私の場合、あるきっかけがあって二五歳から約三年半、インドに滞在したことが
大きかったと思います。

見城 インドは人を二つに分けるとよくいいますでしょう。
好きになってほれ込んでしまう人と、行ったが最後二度と行かない人と。
私はおそらく後者だと思いますが、田村さんはほれ込んでしまわれたとか。
インドの何がそんなに魅力的だったのですか。

田村 インドは日本とは全く異質な世界ですから、大変なカルチャーショックを受けまして、
それまで身にまとっていた感性が焼き尽くされ、生も根も尽き果てて帰ってきました。
でも不思議なくらいインドにはこだわる何かがありました。
そこから何か新しい泉のようなものが湧き出してきて、私の絵の世界もふくらんできたんです。

見城 どのようにふくらんできたのですか。

田村 その一番大きな要素はインドの女性像でした。
インドの女性は顔が立体的で、造形的にとても美しいんです。
手足も長くて表情が豊かですし、しゃがんだり、寝そべったり、日常のポーズも変化に富んでいて、
そして包み隠されたサリーが何とも美しく、そういう描きたい女の人の形がごろごろしていて、
描いても描いても描き尽くせないモチーフの宝庫になったんですね。
道端に寝そべっている物乞いさんの寝顔にほれ込んでしまって、アパートにモデルとして
来てもらって、何時間も飽きるころなくデッサンしたこともあります。
大家さんに見つかって、ひどく怒られてしまいましたけれど。

見城 田村さんの作品は女性像が重要なモチーフになっていらっしゃいますが、
インドに原点があったんですね。
ご帰国後はどうなさったのですか。

田村 描き溜めた作品を持ち帰って展覧会を開いたのですが、自分の作品を見ているうちに、
感覚的に何か違うなと思ったんですね、絵の中を流れる空気みたいなものが。
そんなとき出会ったのがインドの砂漠の町ラジャスタンの空気だったんです。
この乾いた空気の感じとか、太陽光線が屈折しながら飛び込んでくる様子をどうやったら
キャンバスに表現できるんだろうかと。
いろいろトライしているうちに、私とピッタリくるマチエール(絵はだ)を自己流で
見つけることができました。
それで、いろいろな種類のローラーを作って、訓練に訓練を重ねて、
こういう乾いた絵はだが出来たわけです。

見城 表面が何かこう独特の風合いがありますね。

田村 ツルッとしていなくて、ザラッとした、この感触が気に入っているんです。

見城 だんだんにご自身の絵の世界を築かれていくご様子、伺っていてもワクワクしてきますね。
壁画との出会いはどこだったのですか。

田村 インドのジュンジュヌという町なんです。
当時は冷蔵庫も車もないような砂漠の町なんですが、建物という建物、壁という壁が家から
外まで絵模様で覆いつくされているんです。
それを見て思ったんですね。
こんな何もない砂漠でも、壁に絵さえ描けば果物でも花でも何でも手に入るし、
人を楽しませることができるって。
いつかチャンスがあったら、自分もやってみたいと。

見城 壁画に強いインプレッションを受けられていつかはと思われたわけですが、
それを出させてくれるきっかけがなければそれで終わってしまいますよね。
運命の最後の糸はどうやってつながったのですか。

田村 文化庁芸術家在外研修員の留学試験に受かって、三ヶ月ほど中国に留学したんです。
インドから文化が流れていった先をどうしても研究してみたいと思っていましたので、
中国を選んだのですが、ちょうど日中合併のホテル「唐華賓館」が建設中だったんですね。
それで、そこのロビーの壁画をというお話を頂いたわけです。

■夢がかなって、西安のホテル「唐華賓館」のロビーの壁画を制作

見城 不思議な縁ですね。
一生懸命に生きて、ご自分の芸術を追求なさっているうちに、どんどん壁画に吸い寄せられて
いったわけでしょう。

田村 そこに至るまでにはさまざまな出会いがあったと思うんですね。
人との出会い、ものとの出会い、土地との出合い・・・。
それも、自分からいろいろと行動を起こしていったのが、そういう出会いを生んで、
たまたまおもしろく展開していったのだと思いますが。

見城 いつかは壁画との思いがかなったわけですが、それまで壁画の経験は
なかったわけですよね。
さぞ大変だったと思いますが、そもそもコンセプトはどういうものだったのですか。

田村 建物は中国の女性建築家、張錦秋さんが唐時代の建築様式を取り入れて設計したもので、
壁画もそれにふさわしいものをということでした。

見城 といいますと。

田村 まず唐の繁栄を象徴するものであること、日中合弁事業なので日中の友好を
反映するものであること、旅行者がホッとできるものであること、宗教色があまりないこと、
色合いも現代アートのようなものであってはならないこと等々でした。

見城 わー、大変。
条件が色々とあったんですね。

田村 まあ、恐ろしい。
唐の時代の素晴らしい遺産がたくさんあるところで、失敗したらどうしようかしら、
私が築いてきたささやかな絵描き人生もつぶれてしまうのではないかしらと思いました(笑)。

見城 壁画のストーリーといいますか、絵柄はどうなさったのですか。

田村 壁画は四面で、合計六〇メートルにもなります。
そこで、描かれた表面の絵柄を簡単にお話しますと、まず南面は唐の繁栄を象徴して、当時、
盛んだったポロのゲームに似せた騎馬ゲームの様子を、西面は西安がシルクロードの起点で、
ここから西に砂漠があるので、ラクダを率いた隊商が休息する姿を、東面は東に日本があるので
日中友好を表して日本の童が着物を着て踊っているところを、北面が楊貴妃の話をイメージして、
女官たちがおしゃべりをしている姿を描きました。

見城 素晴らしい構成ですね。
しかも条件として与えられた要素をうまく盛り込んでいらっしゃいますよね。
色合いは何を基調になさったのですか。

田村 私の好みの色は古代朱のような赤なので、唐の時代のしっとりとしてくすんだ赤を
選びましたら、すぐOKが出ました。

見城 壁面の素材は何なのですか。

田村 漆喰です。
ほかに、寒冷紗という布を敷く場合もあります。

見城 漆喰といいますと、フレスコ画を思い浮かべますけれど、
顔料は何をご使用になったんですか。

田村 アクリル絵の具を使用しました。
これですと、自分の油絵とほとんど変わらない効果が得られるものですから。

見城 下書きはなさるんですか。

田村 実寸に合わせて下絵は制作しました。
でも私はもともと油絵でも下絵は描かず、描いていくうちにイメージが沸いてくるタイプなんですね。
日本画のかたはよく原画をきちんと作成して、それを拡大したり縮小したりする方法を
とりますけれど、そういうやり方はしないんです。
しかし、今回は特別下絵づくりをしました。
そのうえで、実際の制作過程で出てくる勢いみたいなものの大切にしようと考えました。

見城 制作の現場はどうなっているのですか。
足場とか危険なこともおありだったと思いますが。

田村 何しろ、工事をしている現場で制作するわけですから、工事の音はするし、
建具もまだ取り付けられていませんから、吹きっさらしなわけです。
夏は暑いし、冬は寒い。
特に冬の寒さは格別で、十二単衣と称されたほどの厚着をしてカイロを巻き付けるのですが、
気がつくと顔が霜焼けになって、おてもやんみたいに真っ赤に膨れ上がっているんですね。

見城 わー。大変。それはつらいですね。

田村 特に夜の冷え込みは想像を絶します。
筋肉は硬直して、いったん曲げた足は伸びませんし、軍手をはめた指も感覚が
なくなってしまうほど。
アクリル絵の具も寒さでパラパラと落ちてしまって壁に付かないし、
絵筆も霜で凍ってしまうんですね。

見城 体力と忍耐の勝負ですね。
内から燃えるものがないと続きませんよね。
制作にはどれくらいかかったのですか。

田村 一年半です。

見城 一年半も?
完成されたときはどんなお気持ちでしたか。

田村 長い間夢に見た壁画が始めて完成して、とても幸せな気分でした。
いろいろな条件はありましたが、私としてはこれまで私が生きてきた人生の全てを注ぎ込んだ
つもりでしたから。
それに初めての壁画でしたので、壁画というものを一から勉強させていただきましたし、
日中のさまざまな方々と知り合い、お世話にもなりました。
それで、日中友好のために壁画は寄贈させていただきました。

■壁画は環境アート、そこに一番ふさわしいものを描きたい

見城 すばらしいことですね。
それ以来、田村さんは数多くの壁画を手がけていらっしゃるわけですが、
壁画の醍醐味は何でしょうか。
特に普段お描きになる油絵とは何が違いますか。

田村 油絵を描くときは、自由なテーマで自分が描きたいように描きますよね。
ところが壁画は場所が設定されていて、ある程度目的が決まっていますでしょう。
当然そこにふさわしいテーマというものがあるわけです。
例えば、このイタリアンレストラン「ラパオ」の場合も、お客様がくつろいで
お食事をしていただけるように、絵が騒がしくおしゃべりしないで、優しく佇んでいる
雰囲気に仕上げました。
去年、広尾にある北里病院の壁画を制作しましたときは、やはり患者さんが元気に
なるようなテーマにしました。
壁画は環境アートだと思いますので、そこに一番ふさわしいものを描こうという
気持ちで描いています。

見城 壁画はどこでもない、そこにあるからこそ生きる芸術なんですね。
その意味で、回りの環境も含めて鑑賞する頃が大事なわけですね。

田村 ですから、ぜひそこに行って見ていただきたいですね。
油絵は描いたあとはどこのお宅に行くか、どこの美術館に納められるかわかりませんでしょう。
簡単にちょっと見せてくださいというわけにはいきません。
壁画はその場所に行けば誰でも好きなときに見られるわけです。
ですから、壁画は私のものでもなく、かといってオーナーだけのものでもない、
みんなのものだと思うんですね。

見城 気に入ったらいつでも何度でも見に来ることが出来ますしね。

田村 よく絵画は三分間の芸術といわれますけれど、壁画はレストランでしたらお食事を
しているあいだ一時間ぐらいは嫌でもお付き合いいただくわけですね。
ホテルでしたらロビーを通るたびに、船でしたら航海の間中。

見城 それと、油絵はアトリエで描くわけですから、理想的な環境で制作できますでしょう。
壁画は唐華賓館のように厳しい現場が多いと思いますので、制作自体が大変なのではないですか。

田村 とにかく重労働です。
大体が足場の上に乗っかって描くわけですが、「飛鳥」の場合は最後はゴンドラに乗って
宙吊りになりながら仕上げました。

見城 キャンパスと違って、描く時の体勢も難しいのではないですか。

田村 壁面がちょうどよい角度にあるとは限りませんから、厳しいですね。
中山競馬場の場合は四五度傾いていましたし、蓼科のブライトン倶楽部はカーブしていました。
どうしても不自由な格好をして描きますから、首や肩や腰を痛めてしまうんですね。

見城 そうやってご苦労なさって描いた壁画を皆さんにどう鑑賞していただきたいと
思っていらっしゃいますか。

田村 私、壁画のことをよくやわらかい壁と表現するんですね。
例えば、このレストランは大手町のコンクリートジャングルの中にありますでしょう。
窓を開けてもビルばかり。
それで、壁が空気を移動させるといいますが、壁画を通して風が行き来する雰囲気を
作りたかったんですね。
それで、遊牧民が草原で楽しげに踊ったり、くつろいだり、夢を語ったりするイメージのなかで、
ピクニック気分で食事をしていただくように創ってみました。

見城 お食事をしながら、ふと目を壁画に移しますと、壁という存在を超えて、
そこにそういう風景が広がっていて、豊饒の時が流れているという感じがします。
とてもいいですねえ。

田村 そう感じていただくととてもうれしいんですけれど。
また、名古屋のJRセントラルタワーズの壁画はオフィス街にありまして、
九人の美神が描かれているんですね。
それぞれ自分の気に入った美神に「おはよう。今日は外は雨だよ」とか、
帰るときは「さよなら。また明日ね」というように、気楽に声をかけていただけたらと思います。

見城 そうやって、皆さんが壁画を自分のものにできるなんてすてきですよね。
でもこれだけ人目にされされますと、壁画の傷み方はどうなのですか。

田村 私が現在制作しているものはコーティングといって、絵の具でガラスの皮膜が
覆ってあるんです。
ですから、例えば子どもが汚れた手で触ってもタバコの油が付いても埃が溜まっても、
一年に一回ぐらい水雑巾で拭いてあげればきれいになります。

見城 そうなんですか。ミケランジェロの天井画など一生懸命修復していますけれど、
これはほとんど修復せず二十一世紀を生きるんですね。

田村 そうですね。色も壁面も私の命はなくなっても、この建物がある限り
生き残ってくれると思います。
人は子どもを生んで、自分の血を少しでも伝えたいと思いますでしょう。
それと同じで、絵描きも何か残したいんですね。
私、自分の作品をわが子と呼んでいるんですけれど、それは子供を残すのと同じような
意味合いなんですね。

見城 人生は限りがありますけれど、芸術は残っていくわけですね。
最後に、今後のご抱負はなんでしょうか。

田村 今、東京都下の青梅にある老人病院の壁画に取り掛かっているんですが、今まで描いた
ことのない紅葉を秋のシーンにトライして、春のシーンは桜を描いて、一つの画面の中で
冒険をして見ようと思っているんですよ。

見城 それもまた、とても興味深い構想ですね。
拝見させていただくのを楽しみにしております。


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