


【人間発見】
「壁画に美神が宿るA」
一九四四年、疎開先の愛知県木曽川町(現一宮市)で生まれる。
子どものころから『独り遊び』の絵を描くことに楽しみを見いだしていた。
終戦から数年後、名古屋市に移り住みました。
私はまだ小学生。町中はガレキの山に覆われ、バラックが点在していました。
現在では想像もつかない戦後の廃墟のモノクローム(白黒)の世界に一転だけ鮮やかな色彩が浮かぶ光景に突き当たります。
近所に、普通の人とちょっと違う雰囲気の絵描きさんがいました。
ベレー帽をかぶり、おおきなヒマワリなど画材の花束を抱えてアトリエに出入りしていました。
夢のような色彩に満ちたその情景は「いいなあ」と私の視線を釘付けにしました。
何はなくとも、あの色鮮やかな花に囲まれた生活が出来れば、何とか生き抜いていくことができるのではないか。
自分の夢は絵を描くことだとはじめて意識したのは、この時だったかもしれません。
− 名古屋の今池中学から旭丘高校へと進む。
十代の田村さんはそれぞれの学校で絵の恩師に出会う ー
■こどものころ、独り遊びの絵 中学・高校に絵の恩師
中学一年の時でした。
写生コンクールがあり、近くの公園へ出かけました。
私が描きたかったのは、木立があり、公会堂があり、そこに夕日が落ちていく秋の景色でした。
他の生徒が描き終えて、どんどん帰ってしまうのに、私だけは夕暮れになるのを待っていました。
やっと描き終わったころは、あたりはもう真っ暗。
慌てて学校に戻ると、職員室に明かりがポツンと一つだけともっていました。
肩で息をしている私を先生は怒らなかった。
「ほう、夕日の公園か、悪くないな」とつぶやいた。
あのひと言が、私にとって何にも代えがたい励ましに聞こえました。
その絵が結局、一等賞を取ったのです。
理科のカエルの解剖実験で、それを図にして提出するのですが、私が描いたものが戻ってこない。
なぜですかと聞くと「描写力がすごい。貴重な作品だから、学校に寄付しなさい」とおだてられ、
いい気持ちになったこともありました。
まあ、それだけものを見て写したり、描いたりすることを抵抗なく楽しんでやっていたわけです。
この温かい先生から、「そんなに好きなら、絵の高校に進んだらどうか」と背中を押され、
日本でも珍しい美術課程のある旭丘高校に進むことにしたのです。
高校の先生も好きでした。自宅のアトリエを生徒たちに開放し、課外授業するほど熱心な先生でした。
名古屋地方はよく台風に見舞われましたが、そんな風の強い日でも私たちは無遠慮に上り込んでいた。
アトリエは停電になっていたのに、ロウソクの明かりの下でゆらめく石こう像をデッサンしていました。
先生も「無理だからやめよう」とは言わなかった。
生徒たちの熱い気持ちを大事にしてくれていたのでしょう。
■芸大に進んだ先輩の手法に衝撃 先生と訣別、東京へ
ところが高校も終わりのころ、この愛すべき先生に訣別宣言をすることになったのです。
東京芸大に進んだ先輩が母校で絵を指導する機会がありました。
私がそれまでやっていた方法とは違い、肩にはまらないのびやかな絵を描いているのを見て、衝撃を受けました。
そして「このままではダメ。今すぐ東京へ行こう」と思いつめたのです。
先生の一番忠実な生徒だったから、なかなか打ち明けられず、出発の日にようやく決意を伝えました。
先生は裏切られたような気持ちだったのでしょう。
往復ビンタを浴びたけれど、その足で九百円の片道切符を握りしめ、名古屋駅から夜行列車に飛び乗りました。
私の人生の大きな分岐点でした。
その後、数十年ぶりにお会いし、先生へおわびの言葉を伝えました。
今では、会うべき時に会うべき先生に巡り会えて、自分は本当に運がよかったと思っています。

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