【 [【 はじめのはじまり 】
絵の道を歩き出してから四十年、壁画制作も平行してはじめてから二十年となったが、
今現在は年初からはじめての襖絵制作に取り組んでいる。
枚数は五十八枚、全長六十メートルに及ぶ。
今まで手がけてきた壁画四十九作も結構大きいものだったが、今回ものは最大級の長さ。
襖絵も折りたたみ式の壁画といえなくもないので、私の五十作目の壁画となる。
納め先は現在建設中の京都嵐山天龍寺の塔頭宝厳院本堂。
09年春の落慶法要に照準を合わせている。
壁画制作の場合は、たいてい現場に数ヶ月こもって描きあげるが、今回は現場がなく、
アトリエにも到底並べきれない広さなので、
都内に俄か仕立てのスタジオをしつらえた。それでも本堂並みのスペースは確保できない。
窓はすべて襖でふさぎ、襖がひしめき合うような無窓部屋で昼夜の時間感覚もなく、
季節の移ろいも定かでないままに、この一年近くをすごした。
まるでこれから襖が入る禅寺での行の座禅訓練の道場のよう。
いままで襖絵といえば、京都を中心に歴史的な名品が目白押しにあるが、すべて日本画・水墨画だ。
洋画の分野のものが、しかも女(といわせてください)が、禅寺に襖絵を描くというのは、
ちょっと大げさだが前代未聞のことだそうだ。
こんなはじめて尽くしの事態になった経緯のキーワードはやはり「はじめて」だ。二十数年前に話は遡る。
私は日本から中国へのはじめての文化庁の公費留学生として北京中央美術学院に留学した。
留学中に西安に立ち寄った際、大雁塔近くに建設中の日中合作(合併)ホテルのロビーに
全長六十メートルの壁画制作を依頼された。
唐代建築の第一人者である設計主任・張女史と意気投合し、
モチーフは唐の都長安の栄華と大和の飛鳥里と定めた。
改めて西安入りをして一年半の滞在後、私のはじめての壁画は完成しホテルもオープンした。
仏教の伝来地であり、禅宗の発祥の地でもある場所柄日本からの仏教関係者の来訪も頻繁で、
私の壁画もこの二十年間親しんでいただいてきた。
その中に宝厳院の和尚様がおられ、このたび数百年ぶりに建つ本堂の襖絵はなんとしてもこの作者に、
との思いをぶつけてこられた。
そんな大それたことを、ひるむ私に「何を描いていただいてもいい。好きなものを描くのが一番。
うんと人間くさい群像もいいですなあ」と
禅問答に落とし込まれてしまった。これがご縁(仏縁か)というものでしょう。
仏縁というにはちと調子がよすぎるが、もう一本の縁の糸があった。
古い話になる。美大を出て間無しの頃、商社勤めだった連れ合いの赴任地がインド。
仲間がフランスやイタリアに修行に行くのを横目で見ながら、私の絵の修行地は、はからずもインドになった。
きっかけは受身的なものだったが、インドでの四年間の滞在中、街中や旅行先の村落で
夢中で描いた人物のデッサンやスケッチが、現在の私の絵の背骨になっている。
そういえばかつて私が歩いていた北インドは仏陀が旅をつづけた地であり、仏教の祖地だ。
私がインドの風土や人のかたちに惹かれ、絵をつづけてきたのも何か襖絵に結びつく糸の一端かもしれない。
絵は、現在七合目というところ。
襖表は従来の和紙や木目板ではなく、布地のカンバスとなり、
顔料も墨や岩絵の具にかわりアクリル樹脂となった。
これもはじめての試みで、襖職人さんとは重量・厚みなど綿密に打ち合わせた。
モチーフは絵全体が未完成であり、絵は言葉で言い表しにくいものであることを了解していただくとして、
仏教のはじめのはじまりの頃をイメージして描いている。
仏教の祖地らしき赤砂岩の山々と大河、三十三体の人々が配されている。
座禅や説法をしている人はいない。みな思い思いにくつろいだり、
寝そべったり、人くさく、ちょっぴりユーモラスなポーズ。
襖絵が千年先に出会うひとに、ウィンクできるようなものを作りたいな。それが禅寺にはぴったりでしょう。
襖絵は落慶に先立ち、○八年九月から二ヶ月間東京・名古屋・京都で完成披露展が開催される予定。
おしゃべりはこのくらいにしてまずは展覧会場でぜひ本物に出会ってやってください。