絵画の持つパワー
ほぐれてとけていくようなもの描きたい

画架に向かう時 いちばん安らぐ


 絵を描くことしか能がない。
ひたすら描いてきたら、いつの間にか四十数年経っていた。
「よく飽きないね」。
そんな声が聞こえそうだが、どういうわけか昔も今も画架に向かっているときが、一番気持ちが安らぐ。
家人も「絵筆を持っているときが一番いい顔してる」という。
普段の不細工さを嘆いているのかもしれないが、わかる気がする。

 アトリエと自宅が一緒なので、朝昼晩の生活の中でアトリエに出入りする。
そこは日常の場所だが、空間の空気は日々違っている。
描きかけのキャンバスが、「おはよう」のかわりに「今日はここんとこ何とかしてくれよ」と呟いたり、
「だめだめそんなんじゃ」と結構朝からざわめいている。
その声に耳を傾けながら、一杯の寝覚めのコーヒーを啜る。これが楽しみだ。
そういえばアトリエは、どこか一人遊びをしている子供の砂場に似ている。

 ただの遊びなら、出来た結果は問われない。
絵描きという作り手によって生まれた絵となるとそうはいかない。
アトリエを出れば絵は一人歩きをする。
レベルの高い鑑賞者の目にも堪え、見る人の心を動かすことので出来るものとなると、
俄然、創作の場は修練・学習・工夫・吟味の場という様相を帯びてくる。
けれども本当の創造とは、そんな厳しさや、苦しさを微塵も感じさせない、遊び心いっぱいのもの、
没頭した純粋な時間の成果ではないか、と自問しながら結局は楽しんでいる。



中国を手始めに壁画作りの旅

 今から二十四年前、中国の美術学院への留学がきっかけとなって、
中国・西安の日中合作(当時)ホテルのロビー四面六十メートルに、壁画を描くことになった。
 現場はアトリエならぬ吹きさらしの工事現場。
夏は四十度、冬は零下十五度の中で、自分を追い込んで一年半楽しみつつ頑張った。
絵描きと壁画作家の一足半のわらじを履いた旅がそこから始まった。
その後巨大な壁画つくり
の旅は、三年前の京都嵐山宝厳院本堂の襖絵五十八面も入れると、
昨年暮れの日赤医療センター(東京・広尾)の三部作までに五十三作となった。

 現場仕事はアトリエとは違い、環境の劣悪さという点では、作り手には心身に大きな負担となる。
おまけに巨大な面積は、生半可には取り組めない。
気力・根気・体力と大きさとの勝負だ。
けれども自分で言うのもへんだが、条件が悪ければ悪いほど、それを克服したときの喜びが味わえる。
これは、一度経験すると病みつきになる。

 葛飾北斎は自らを画に偏する人と称した。
腕前のほうはともかく、どんな環境でも壁画を描いていることが
楽しかった自分も、その類だったのではないかと思う。
それに壁画の現場では、アトリエの一人遊びでは味わえない、現場周辺の人々との交流や協力関係が生まれ、
人情に触れることもできる。

 最初の西安の現場では、日本からの出稼ぎのペンキ屋さんに間違われたこともあったが、事情がしれると焼き芋や
万頭の差し入れがあったり、芸術論を吹っかけられたりした。

タブロウ(動かすことのできる絵)は絵描きのアトリエをいったん出れば、多くはその運命を作者は知ることが出来ない。  
壁画は設置される場所が決まっており、そこに行けば、誰もが出会うことが出来る。
壁画を手がけるようになってから、作者である私自身が、壁画に出合った方々からの声や便りを聞かせていただける
機会が格段に多くなった。

 生きている間は壁画の運命や歴史に立ち会うことも出来、壁画を介した人とのコミュニケーションの輪も
予想を超えて広がった。
わが子と呼ぶ自分の壁画が今日も多くの方々と出会い、対話をしていることを想像すると楽しい。

私自身が時々バスツアーを組んで壁画案内をすることもある。
現存する作者の案内で作品に出会うというのも好評で、自分でも楽しいものだ。


被災者と会話していた作品

 年が明けでテレビをつけたら、ハイチの大地震の惨状が映し出されていた。
その悲惨さは私に十五年前の阪神大震災を思い起こさせた。
震災の直後、私は個展を最後の巡回地である大阪・難波で行った。
開催をためらう意見もあったが、こういうときだからこそ、という声に背中を押された。
交通もまったく回復していない状態で、こんなときに絵など見に来ていただく方はわずかだろう、
そんな私の予想はあっさりと覆された。
手足の包帯を巻いた方、松葉杖で立つ方までもが大勢こられた。

 私はその頃シルクロードの砂漠やオアシスにでかけては、そこで生活する人々をモチーフに描いていた。
「家も家財もすべてをなくしてしまったけど、このシルクロードの人をみていたら、なんだか勇気がわいて来た。
この砂漠でも人は無一物でも悠然として生きている。生きていけるんだ、と励まされた感じがする」。
 
 作品は絵筆の小さな計算を超え、被災者の方々と会話をしていた。
私の絵、
というより「絵画」はそれだけのパワーを持つことができる、なんだか呆然として個展会場に私は立っていた。
特に壁画を描くようになって、絵の役割りのようなものを考えるようになった。
絵の作り手は自分の絵心に響くもの、描きたいものを思う存分描くこと。
それが一番欠かせないが、結果として出会う方々との間に、コミュニケーションが生まれなければ、
世の中に生まれ出た意味はない。
「何となく絵の前に立つとほっとするなあ」「気分が楽になった」「自分が取り戻せた」「生きてるって悪くないな」
身体をマッサージされたとき、ほぐれがとけていくような、そんなつぶやきが、時間や空間を超えて無限にひろがっていく、
そんな絵を描きたい。
田村能里子オフィシャルホームページ:過去の掲載記事婦人公論
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電通報 2010年 2月22日

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