【人間発見】
「壁画に美神が宿るB」
一九六六年に武蔵野芸術大学を卒業。六九年から四年間、インドに滞在し、田村作品の原点となるアジアの女性を描き続ける。
二十代の半ばでした。夫が仕事でインドに転勤することになりました。
友人たちはみんなパリやニューヨークで勉強しており、インドに行っても仕方がないという。
確かに、画家の感覚としては、インドは欧米よりはるかに遠い場所と思われていました。
「でも、かえって面白い何かが見つかるかもしれない」と考え、夫についていくことを決心したのです。
実際に行ってみたら、聞きしに勝る場所でした。
最初は車から道路に降りても足が動かない。
街中には人や車、牛であふれ返り、汚れた喧騒(けんそう)のちまたでした。
彫り物のような褐色の骨格の人たちに鋭い視線で見つめられると、足がすくんで前に進めないのです。
ただもう圧倒されていました。
今まで見たことも感じたこともない世界が広がっていました。
カルチャーショックといわれるほど生やさしいものではありません。
日本で積み上げてきた絵のキャリアなど何の役にも立たない。
絵を描く仲間もいない街で途方に暮れるばかりでした。
それでも、絵を続けるためには、異国で立ちすくんではいけないと、ひるむ自分を奮い立たせました。
そして、若さと無鉄砲さを支えに、画板とクレヨンを抱え、街の懐深く、人々の生活の場へ入り込んでいきました。
■大学卒業後、インド滞在 したたかに生きる女性を描く
帰国後もインドに通い続けた。
「タムラレッド」と呼ばれる独特の赤を見出し、砂漠のようにざらっと乾いた感じのマチュール(絵肌)に行き着くのだ。
インドでの最初の衝撃と驚きが過ぎ去ると、毎日が新鮮な発見の連続で、もう夢中でした。
こんな出来事がありました。
ある日のこと、混雑し市場の中で、さんばら髪ですが、横顔の美しい少女に出会いました。
思わず画板を広げ、クレヨンを走らせようとすると、たちまち人だかりができました。
誰かが「何をしているのか」と叫んだらしく、騒ぎになリかけました。
すぐに少女を自分の下宿に連れて行き、デッサンを続けたのです。
少女の無垢(むく)な美しさをとらえようと一心に描いていると大家のおばさんのわめき声とドアを激しく叩く音がしました。
「入れてはいけない者を、あなたは家の中に入れている。すぐに追い出しなさい」と言っているのです。
大家さんから大目玉を食らい、二度と入れないことを誓わされ、私は初めてこの国に残る階層社会の暗い重さを思い知らされました。
それでも、街の人たちと気持ちのコンタクトがとれるようになると、日本にいたのでは到底見つかりそうもない
絵の題材としての宝の山が広がっていました。
コルカタの路上であぐらをかいていた大きな乳房の母親、ベナレスの沐浴(もくよく)場で見たきゃしゃで足が長く
サリーを巻いた婦人ら、豊かな表情とおおらかな四肢を持つ女性たちがいました。
厳しい風土に根を張って、したたかに生き抜く女性という素晴らしいモデルがいっぱいいたのです。
■写真集で見た町訪問 土塀一面に描かれた絵に感動
それは視覚がとらえた美というだけでなく、虚飾をそぎ落として純粋なもの、ひたむきなものを感じる形でした。
つまり、私が求めていた「ひとのかたち」だったのです。
シャープな顔の線と美しい体のフォルムが今の自分の絵の土台になったように感じています。
たまたま、「壁画に埋め尽くされた町」と題した写真集を目にし、好奇心をそそられました。
町の名はインド北西部のタール砂漠にあるジュンジュヌ。
さっそく町を訪れると、家の土塀にマハラジャ像や、インドの伝統舞踊の場面などがびっしり描かれていました。
絵というものが生活に密着した豊かなものであることを感じました。
このときだったのです。
「私もいつか一作でいいから、壁画を描いてみたい」と思ったのは。
【人間発見】
「壁画に美神が宿るC」
一九八六年、文化の芸術家在外研究員として中国の北京中央美術学院に留学した。
四十台の初めに新たな転機がありました。
ある美術展のコンクールでグランプリに作品が内定していた私は審査員に呼び出され、受賞が取り消されたのです。
規定のサイズより数センチ大きいと、クレームがついたのです。
「絵の価値は大きさではないのに・・・。」
と気持ちがなえかけていた時、文化の留学生制度に私が推薦されたという知らせを受け取りました。
四十歳を越えてからの留学なんて考えてもいませんでした。
それでも、シルクロードの壁画を一度は見てみたいという興味から、この留学に飛びついたのです。
北京での授業を一通り終えたところで、約四十日間の西域への旅に出ました。
■中国留学、シルクロードを旅行 老人の美に引かれる
北京から西安へ向かい、敦煌を経てトルファン、ウルムチに入り、カシュガルまでの約五千`の旅程です。
女独りの気ままなシルクロードの旅とはいえ、現実には約三十`の画材道具を引きずり、
砂嵐の中を汽車やバスに乗り継いでの厳しいものでした。
おまけに、言葉が通じず、予約や予定が一切立たない土地柄です。
それでも、中国の最西端の街カシュガルには、どんな美女が持っているのだろうかと胸をときめかせていたものです。
ところが、そこで私が出会い、絵心をかきたてられたのは、美女ならぬ、とても味のあるいい顔をした老人たちでした。
ポプラ並木の間をラクダが行きかう素朴な村がある。
イスラム寺院の傍らに座り込んで談笑する人、砂の粗壁にもたれて日差しを楽しむ人。
みな一様に白い単衣(ひとえ)にひものベルトを巻き、おしゃれなモスレム帽をかぶって、
サンタクロースのような白ひげをたくわえている。
中央アジアの少数民族の興亡の歴史が、顔や手の深いしわに刻まれているようです。
けれども、眼差しや顔つきは本当に穏やかで、自然と同化した「美しい老い」の形に出会えたのです。
もののあふれる都市文化の中で漂流するように生きている自分からは想像もできない、
この美しい老人たちを、紙切れがなくなるまで描かせたもらいました。
■西安のホテルに第1号作品 日中友好の願いを込め制作
八八年、日中合弁事業で建設された西安のホテル「唐華賓館」のロビーに「二都花宴図(にとかえんず)」が完成。
田村さんの記念すべき壁画第一号であった
文化省からの中国への初めての留学生ということで、現地の新聞記事に紹介されました。
それを見たホテルの経営者から、壁画を制作してくれないかという依頼があり、私は二つ返事で引き受けました。
異郷の、しかも建築現場という男の世界で、制作に延べ一年半かけました。
西安は砂漠の入り口にあり、大変な気候の土地。
冬は零下一〇度以下、夏は四〇度以上の極寒酷暑の吹きさらしの中での仕事です。
「日本から出稼ぎに来た、かわいそうなペンキ屋さん」とうわさになり、
中国人の工事関係者が何人も壁画の足場に集まってきました。
焼き芋や温かい肉まんを差し入れてくれたり、トウガラシを靴の中に入れたらいいと、
温かくなる方法をいろいろ親切に教えてくれたりしました。
気の毒に思われていたようですが、本人はいたって好奇心旺盛で、楽しい気分だったんです。
何にもないゼロの真っ白の壁と対話しながら、何かを生み出すのは至上の喜びでした。
壁にさえ向かっているば、寒いの暑いのってあまり気にならなったですね。
ホテルのロビー東西南北の四面の巾に合わせると約六十bに及びます。
シルクロードを行くラクダの隊商と、大和の里で遊ぶ童を組み合わせ、西安がかつて唐の時代に繁栄した長安であることを
象徴する絵柄で日中友好を表現してみました。
九二年には、訪中された天皇・皇后陛下にも見ていただく機会がありました。
現在、観光バスで、長安の歴史遺物とともにこの壁画も紹介されているようです。
「わが子の活躍」についうれしくなってしまいます。