画文集
女ひとりシルクロードを描く

長安の「二都花宴図」大壁画

日本経済新聞社発行

〈壁画ノート・砂の糸 〉
 
目を閉じて来し方を手操ってみると、それは一条の砂の道だったように思われる。
初めて印度の地を踏んだのは二十五歳のとき。
自分にとって初めての異国でもあった。
降りたつ前、空からみたその国は果てしなく広がる砂漠と大蛇のようにゆったりとした曲線を描く
大河だけの不毛の地とみえた。 その地で暮らすこと四年。
不毛と思われた地上は、強烈なそして豊饒な人々の生活の場であることを知った。
町には砂が舞い上がっていた。
薄桃色や淡青色が時間というサンドペーパーで擦られなんともいえぬ味わいとなった
砂壁に囲まれた生活だった。
その濃密な生活空間と、存在感そのもののような人々のかたち。
初めての異国は人の造形美を初めて教えてくれた地でもあった。

 暮らしている間、まるで日課のように毎日毎日コンテで人を描いた。
その造形に魅せられて飽くことはなかった。
ラジオ体操をするようにコンテを動かした。
じっとしていても手の甲から汗が吹き出てくる暑さ。
描きためたスケッチは汗と砂ですぐに黄ばんでしまった。
凄まじい時間の経過。時の痕跡。
その時間を掠めとるように描く気合のようなものを体得したと思った。
コンテは千の桁をいつしか越えた。
そこだけが唯一ひんやりとしていたアトリエの石畳の床。
モデルが纏うサリーからしみでた汗が床の上で光っていた。
その汗さえも覆い尽くすように細かい砂粒がいつもサラサラと家の中を流れていた。
極東の緑豊かな清潔好きの環境で生まれ育った者には、はじめ砂は異物であり。
生理的になじめないものだった。
けれども砂と生活の場を共にするうち、いつのまにか砂は気にならない、
時には心地よい生活の味付けになっていることに気づいた。

 印度から帰って十五年たった。
この間に今度は旅人として何度も印度に渡った。
旅を繰り返しているうちに、いつしか砂の世界の方角に
引き寄せられていった。
印度西北部のラジャスタン地方のタール砂漠へと。
チャッパル(印度の皮草履)で歩く足の指の間を
くすぐるように通り抜けていく砂粒。
生きていることを確かめさせるようにピリピリと頬をたたく
砂の嵐。
そうした世界で生き抜くことができるのは
強靭な精神だけという実感。
文明の社会で萎えそうになった心は皮肉なことに
砂漠から水をもらった。
砂漠に魅せられたアラビアのロレンスやシルクロードの
ヘディンも砂の無知と愛に生きている証を
見つけたのではなかったか。

 砂の世界で生きる人々はしたたかである。
砂という不毛の帝王に逆らうでなく、従うでなく、
淡々とそして粘っこく生きている。
砂漠の女の纏うサリーが他のどの世界の着物よりも鮮やかな
色であるのにはわけがある。
砂の帝王はいったん暴れだせば手がつけられない。
太陽も彼の敵ではない。全てを多い尽くしてしまう無の世界。
その無の中をくぐりぬけて生の世界に帰還できるのは極彩色の塊だけ。
事実ショッキングピンクのサリーを纏っていたおかげで砂嵐の中から助け出されることもあるという。
 
 色彩が無の世界に壮大な挑戦をした、その痕跡をこのタール砂漠のシカヴァテイ地方でついにみつけた。
砂漠への入り口ジャイプールから汽車を乗り継いで六時間西へ。
その町ジュンジュヌは町全体が極彩色の壁画そのものであった。
この町の砂壁造りの建物の壁面という壁面はすべてフレスコ画がほどこされていた。
町は彩色の迷宮だった。
道の左右からせまってくる壁画のシンフォニーはこの町が砂漠の真っ只中にポツンと
存在する寒村であることを忘れさせてしまう。
十七-十九世紀に南のシルクロード、東西の通商路として栄えたこの地の藩主は
その富のほとんどをこのフレスコ画にそそぎこんだという。
ちょうどそのころ南印度から伝来したブオノというフレスコ画の技術がこの地に多くのフレスコ職人を
生み出すことになった。
絵柄は藩主の生活の場面、兵士、踊り子、象などのあらゆるモチーフから当時の西欧文化や生活様式、
コスチューム、インテリア、汽車、ミシンなどに及んでいる。
これらの壁画が、唯一のそして全ての情報源であったことがわかる。

 それにしても、この壁画の洪水は何なのだろうか。
不毛の砂漠、砂の論理に町ぐるみで挑んだ狂気の痕跡なのではないか。
この世を夢とも幻ともつかない極彩色の花園とするための暴挙ではなかったのか。
そうした尋常でないたたずまいには、技術の巧拙とは関係ない人をひきずりこむ魔力がたしかにあった。
したり顔の芸術作品からは匂ってこない不思議な香りがあった。
壁画。生活の中に入り込んだ、しかもそれ自身がひとつの世界をなしている壁画というものに、
私が始めて執着を抱いたのはこの時だったといえる。
この壁画に出会ってから私自身の中で描くと言う行為の意味が変化していった。
画面に時を刻み込んでいくこと、虚無に対抗できるだけの強靭な美を創りだすこと、
そのためには悪魔のように緻密で
繊細な技術と天使のように無垢で大胆な試みとが同時に必要であることを知った。
ただ意識としてわかってはいても、現実に出来上がるものははがゆいほど未熟なものばかり。
画面には砂が頻繁に現れた。
風が渦を巻いていた。
その中人の形。確かな造形。いくら挑んでも決して征服できない美の創造という行為。
それは苦しみであると同時に楽園に遊ぶような快楽の時間でもあった。
 印度への旅のくり返しは確かその年以降ぱったりと止まった。

印度に飽きたというわけでもないが、自分の中の一つの時代があの壁画群に出合ったことで
区切りをむかえたという感じだった。
丁度川の流れに竿をさすように、平和な自分に荒々しい自分を立ち向かわせる何かがあった。
しかしそれは一面熱病のようなもので、いつまでも浸っていては体がもたないことも事実だった。
それに熱病はいつかさめるものだ。
私の中の印度はだんだんと客観性を帯びた一つの異国に戻りつつあった。

 そんな時、ほとんどもののはずみで中国への留学がきまった。
二年前のことだ。
何故中国に行きたくなったのか自分でも分からない。
日本と印度とを往復している間、この二つの文化の間に何か大きな溝が横たわっている感じを
抱き続けていた。
それは違和感と一言で片付けてしまうことのできない落差のようなもので、
いってみれば遠い親戚筋に抱くような親密さに似ていた。
こじつけてみれば中国行きは、自分の中にいつのまにか拘りとなって残っていた文化の
血筋のようなものを、ほぐしてみたいという無意識の願望があったのかもしれない。

 留学の期間はたったの三ヵ月。
これ高の時間でそんなだいそれた命題が私に解けるわけもなかった。
ただ中国の西域への旅が何かを私に教えてくれたことは確かだった。
それは印度と中国とは同じ大陸続きであるという当たり前のことを
自分の目で足で実感したことだった。
西域は印度の砂漠と全く同じように砂と風をいただく帝国だった。
人々の生活もまた大自然の前に淡々としかもしぶとく営まれていた。
そしてなによりも人の造形美の酷似性がこの地域が地続きであることの証だった。
国境というものが愚かな人間の作った単なる線引きであることが、この事実から実感された。

 その砂の世界の入り口の敦煌で、またも膨大な壁画の群れに出合った。
ラジャスタンのフレスコ画より遡ること千年。
めくるめくような色彩は今もその片鱗を残し、人の誕生からしにいたる間のありとあらゆる
場面が展開されている。
今度はそれも単なる壁にではなく岩山を蜂の巣のようにくりぬいての仕事。
これは人のなした業なのか。
何年をかけてもその全てをみつくすころはできない程のおびただしい壁画は人の精神の痕跡が
それこそ岩山のようにそびえ、あたりを睥睨することができることを示している。
私は一生のほとんどをろうそくをともしてこの洞窟にこもり太陽に触れることなく、
描き続けそして朽ちて言った
多くの絵師たちのことを思った。
彼らが何を見、何を考え、何を苦しんだのか。
絵を描くという作業がどんな孤独と強靭な精神を必要路するのか、
その答えを目の前に突き出されて私は身が震えた。

 それは大袈裟にいえば絵師としての生き方を宿命として受け止め、
生き抜いてきた業の塊のようにも思えた。
業の炎に実を焼かれながら、大自然の責苦にさいなまれながら、
それでもなお色彩と線描の織り成す
壮大な旋律に忘我の境地をさまよったであろう絵師たちの群れ。
そのかすかな末裔として今立っている自分。
永遠の時間が凝縮されてそこにあった。
絵を志すことに容易ならざる本質がむき出しになっていた。
絵とは何なのか。絵を描く行為とは何。
天空に天女が舞い、鬼神が飛び、楽士たちが奏でる洞窟の宇宙の中で
私の独り言は空しくこだましていった。

 それにしても、と思う。
あの印度のタール砂漠といい、敦煌の岩山といい、何もない虚無の中に限って、
とてつもない豊かさで壁画は存在している。
それは丁度、仏教やキリスト教が貧しい自然の中からしか生まれてこなかった歴史によく符合する。
精神の固まりは不毛の地の水分のみを吸って花を咲かせるだろうか。



〈古都に咲く花〉

 中国での留学期間も終わる頃、まったく思いがけず自分に壁画を描く仕事が舞い込んだ。
西安での建設中の日中合併ホテルのロビー壁画だった。 壁画。
それは私の歩いてきた一筋の道の先に蜃気楼のようにゆらめいていた夢でもあった。
古のひとが刻んだとてつもない精神の軌跡に圧倒される一方、いつか自分も挑んでみたいという
気持ちはたかまっていた。
それも気力をささえる体力のあるうちに、今のうちに自分の全てをぶつけたい、
その夢が実現しそうな気配となった。

 しかし想像する行為が全てそうであるように、どんな緻密な計画を持ってしても一寸先は闇である。
闇の先に何があるかは、誰にもわからない。
ただ辛抱強く今をもがき苦しむ他はない。
夢の実現といってみたところで、ただの自己満足に終わらないレベルのものを生み出すことは、
結局は新たな模索の海に船を漕ぎ出すことしか意味しない。
キャンバスの大小には関係なく絵描きがそこに向かうとき抱くものは、恍惚と不安、恍惚と不安、
二つの感情でより上げられた命綱に身を任せる他はないという一種の諦めしかない。

 留学を終え帰国するまえに、私は恍惚と不安の綱を携えて西安をおとずれた。
八六年五月のこと。
かつて世界一の都、長安として栄華を誇り、その後も栄枯盛衰の波に洗い尽くされてきた
この地の片隅に、幾多の歴史を物語る文物と一緒に自分の生きた時間が
作品としてとけこむことになるのだ。
そうした思いで改めてこの町にたたずんでみると、表面的にみえる人の往来や町並みとは違った、
時の厚みと深さを感じさせる光景に見えた。
ホテルの建設現場は町の中心から南にある大雁塔に隣接した場所にあった。
大雁塔は仏典を印度から初めて中国にもちかえった僧玄奘三蔵が写経をしたゆかりの地。
そんな歴史的人物とは比べるべくもないが、自分も印度からの糸を引っ張ってここまできた、
時間を飛び越えたそんな縁が今度の仕事にはあるような気がしてちょっと御機嫌になった。

 現場の周囲には遅めの新緑が彩りをそえている。
麦の新芽、菜の花畑。柳の白い花が舞っている。
のどかな田園に囲まれた古都。
それでいて土漠の土壌から舞いあがる土ぼこりで空はモノクロームイエローがかって
どんよりと黄色い。
やや喉にひりつく土の匂い。
西安も砂の都であった。
そうした周辺のたたずまいを体に感じとることによって、この地に調和した画想がじわじわと
沸きあがってくるのを待とう。
現場はすでに土が掘りかえされていた。
おそらくは何千年の眠りから目覚めた地下の土の表情は荒々しかった。
 
 日本の建設会社から駐在されている三、四人の現場監督の方々からホテルの全容や
工期のことなどを聞く。
建物は唐時代の建築様式をりといれたもので、張錦秋さんという女性の設計家によるもの。
中国で優秀設計賞を受けたという。
張さんは五十代のさっぱりした感じの人で、てきぱきとものを言い、
男女差を感じさせない迫力のある人だった。
設計図をもらい壁画の位置、大きさを聞く。
ロビー回りは十四・五メートル四方。
一・六×十四・五メートルの壁画が四面ということになる。
張さんから建物自体が唐時代をイメージしたものなので、壁画もその要素を入れること、
中国と日本の合弁事業を象徴するモチーフも考えてほしいとの注文。
一時は中国側から壁画の制作者を出すことにっていた由でもあり、こうした注文や希望はある
程度応じなければ、と思う。
壁画の壁が出来上がるのは一年半後の予定。
一年後までに下図を作り上げることを張さんに約して西安をあとにした。



〈 道程 〉


 中国留学が自分に何をもたらしたのか。
印度と係わってきた子の十数年に比べればたったの三ヶ月の時間は何程でもないことは確かである。
それでも自分でこれとはっきり指摘できないまでも、一筋の道がここにきて大きく曲がったことを
感じる。
中国の美術そのものとか、技術的なものから何かを得たかといえば、正直いって皆無に等しい。
むしろ現代の中国が抱えている問題が美術という本来は個性、個人に属する部分が
本質である分野では、とくにくっきり浮き彫りになっている現実を目のあたりにみたこと、
そして美術に係る人々が、
大なり小なりそうしたことに悩み、今一つふっきれていない様子などをうかがい知れた事のほうが
勉強という
意味では勉強になったといえる。
それよりも自分にとって何か変わったことといえば、描きたいものが印度以外にも豊かにあるという、
考えてみれば至極単純な事実を改めて実感したことなのか、と思う。
もっとも自分は印度の風物を描いていたのではなく印度の女性像をつうじて、
人の存在感や生活の匂いを画面に表減することを試みてきたので、そのモチーフを表現できる対象は
何も印度に限ったことではなかった。

ただ、もうこれでよいという区切りや諦めができず印度の女に拘り続けてきたにすぎない。
中国行きは、とくに西域への旅はそうした狭い範囲での模索の繰り返しからの脱出のきっかけを作ってくれた。
西域の老人たちの姿、かたちに印度の女性とは角度をかえた意味での人の存在感、
生活の匂いをかいだことだった。
印度では女性たちはしたたかに、生命力にあふれるかたちをしていた。
そこに厳しい自然や環境に立ち向かう精神の美をみつけ、魅せられてきた。
西域の老人に見出したものは、むしろ表面的な生命力とは縁遠い、希薄といってもよい存在感だった。
生活の匂いといっても印度のぎらぎらするそれとは違って、淡々と、油気のない匂いだった。
けれども決して肥沃ではない砂と風の大自然のなかで、こうした生きることが一番したたかなのだと、
かたち全体がものをいっているように見えた。
人の老いていく様子がこんなに美しいかたちであるのか。
都会では人は美しく老いることは難しい。人の老いは苦であり、悲しみであり、時として悪として扱われる。
人は誰でも生きていると同時に老いていく。いままで自分が生きていく人のかたちに美を見つけ出したのと
全くおなじように、西域では老いていくかたちに美を見出したように思った。
それはもちろん印度の場合と同様に、彼らの骨格や相貌が絵画として耐えることのできる立体感と
美しさを持っていたことにもよるが、何よりも人が自然体で老い、文字通り土に還っていく姿が
自分の描きたい心を揺さぶったからである。

 自然と人のどうかというモチーフが私の心を占めるようになったのは、自分自身が四十を超え
老いの入り口に立っていることと無縁ではないだろう。
生と老いと死、そして大自然の中の人間というテーマは永遠のも土という認識を、この旅で得たのもこうして
気のむくまま奔放に動き回れる時間はそんなに長くはない、という自分の年齢からくるものだったかもしれない。
西安の壁画は自分にそうした目の広がりを与えてくれた中国に、お返しをするつもりで取り組もうと思った。

 留学から帰ったその年、一九八六年は壁画の構想を練るまでには至らなかった。
むしろ西域への旅で自分が与えられたインパクトを何度もはんすうしながら、人と自然との同化というモチーフ、
具体的には現地で描きためたデッサン類の整理やら油彩への展開などを試みた。
人のかたちを定点として自分の絵を変えていこうとする試みでもあった。
ものを創造する人も普通の人間である以上年をとる。
他人はそれを成熟といい、あるいは衰退とよぶが要すれば老いてゆく。
いつまでも同じ視点に拘っていることはかえって不自然である。
何かに執着してといえば聞こえはよいが、作品を発表し、世間からの評価を受けて
なおかつ定位置にいるということは、酷なようだが未練であり打算であるといわれても
仕方のないことだろう。
そういう点で絵描きに限らず、物を作る仕事に携わり世の中と係っている人間はとくに
自己抑制と自分の内部を省察する勇気が必要だ。

 そんな気持ちでその年は「沙の民」、翌一月に「陽炎人(かげろうびと)」というテーマで
名古屋と渋谷で個展をひらいた。
渋谷の個展では絵のほかに、西域で自分で回してきたビデオフィルムを編集し発表した。
絵描きとは全く勝手気ままなもので、今まで印度、印度と騒いでいたのが今度は西域ということで
見ていただく方の鼻面をひっぱりまわしてしまう。
それでもありがたいことにそんな勝手がかえって評価をいただいたり、
多くの方々に共感を呼んだらしい。
そうした小さな試みの積み重ねは非常に大切だ。
自分の行く道への大きな励ましとなるからだ。



〈 満ちてくるもの 〉


                                
年が明けて一九八七年、漸く壁画の具体的構想に入る。
まず大きさを頭の中に入れなければならない。
一・六×十四・五メートルの実物大の巻紙を張りつぎで
作ってみる。
せいぜい二十畳程度の我がアパートアトリエでは
到底広げれず、地下の駐車場ではじめてその大きさを知る。
想像していた以上に大きい。
縦横の比率からは、やや縦が短すぎる感があるが、
これで縦も数メートルあればとんでもない
巨大な面積になってしまうし、空間のとりかたで
この細長い点を生かすこともできるだろう。
中国側の注文は建築様式に合わせて
古都長安のイメージをとのことだった。
改めて唐の時代の出土文物、歴史書などに目を通してみる。
こうして通覧してみると中国の歴史の中で唐時代は美術、
文学といった芸術の分野で突出した時代だったことがわかる。
その前時代である隋朝の粗削りでプリミティブな
意匠を受け継ぎながら、華麗でモダンな美術が頂点を極めた。
文化の勢いというものは外部の優れたものを
すべて吸収してしまうことが、国際都市長安で生まれた
美術出土品によく現れている。

とくにシルクロードからの影響の濃い俑や唐三彩の騎馬、女人、らくだの造詣の自由闊達さには
圧倒される。
リアルであって、しかもデフォルメされた線の洗練されていること。
現代美術も到達しえないモダニズム。
それらが時の重みを加えて今よみがえったことに舌をまく。
まさに人の生活、生と死を深い眼で見つめていた先人がそこにいたのだ。
 
 平面美術で特にその線描が興味深いのは、則天武后の孫娘である永泰公主の
墓道九十メートルに絵がけれた壁画である。
壁画は人物が主体で侍女、武士などの他、動物、花草木が流麗な線でリアルに描かれている。
それでいて顔の表情、手の動きなど何かを具体的に示唆しないあいまいさで表現されており、
そのことがかえって絵画としてのふくらみと品よさになっている。
唐時代のモチーフとは具体的な唐の風物というより、何よりもこれらの美術の美意識の高さで
あるべきなのだ。
図集を繰りながらそのことに思いあたった時、いまさらながら今度の壁画の仕事に武者震いを
感じてくるのだった。


〈 ある魂の旅 〉

 壁画の西側、シルクロードのモチーフに私は二人の老人をらくだとともに描いている。
老人はかつて私が西域を旅した時のスケッチがもとになっているのだが、日本に帰国した後、
個展のための用意もあって日本人のモデルの方を探した。
 そのOさんが市の高齢者事業団の紹介で私のアトリエを訪ねてこられたのは
八六年の秋のことだった。
市の窓口にお願いしてあった通り、Oさんは長身の日本人離れした骨格ががっしりした老人だった。
お年はたしか七十六歳。
昔は商社関係の仕事をされていて中国にも商用で行ったことがあるとかで、
モデルのポーズをとりながら私の仕事を興味深く聞いてくれた。
自分の父以上の年の方に色々ポーズを注文したり、表情をお願いするのは、なまじ日本人同士だけに、
はじめはこちらもなんとなく遠慮があったが、週に二度来ていただいているうち気心も知れ、
Oさんもアトリエに来るのが楽しみになったようだった。
「Oさん、靴下を脱いでいただけませんか」
「いいですよ。ほら、ちゃんと五本ありますよ」
と軽口を叩きながら、Oさんは自分の息子のこと、若い頃の思い出、好きな将棋のことや
最近の老後のすごしかたなどを淡々と話をされる。
なんだかおしゅうとさんと茶飲み話をしている気分。
その間におかげでよいデッサンが数枚できた。
 Oさんを描くうち、日本人の血の中には、西域の民族から発したものが入っていることが
実感された。
こうして、その年が暮れ私は明けて正月にそのデッサンを主体に個展をすることになった。
Oさんにそのことを連絡しようとしたところ、家族の方が暮れにちょっと風邪をひいて大事をとって
入院されたとのこと。
軽くてすめば個展会場に来ていただけると思っていたところ、会場に来られたのは息子さん夫婦だけで
胸騒ぎを感じつつ尋ねると、年越しの日に亡くなったとのこと。

 数日前まで堂々とした存在感で私のコンテを生き生きと走らせてくれたOさんがなにを急いで
旅立たれたのかと呆然とした。
そして個展の会場を見回すと大勢のOさんが「ここにいますよ。Oさんの魂は、このデッサンの中に
そしてやがて壁画の老人の姿の中に込められることになる。
Oさん、西域の太陽の下では風邪をひかないですみますよ。


〈 永遠の時を閉じ込める 〉

 よく初歩的な芸術論として、注文主のいない本人の
自由意志による作品のみが芸術作品といえるのであって、
特定の目的を持ったり、注文による作品は広告、
デザイン、イラストの類であり芸術とはいえないという
主張がある。
動機が作品の本質であると言う議論。
私にとって動機はどうであれよいものはよい、
美しいものは美しいとしか言いようがない。
たとえば壁画ひとつをとってみても、
その動機は様々である。
宗教、文化、宣伝広告からいたずら描きにいたるるまで
千差万別。
おまけに複雑なことに、あるときは広告だったものが
その目的を失ってもより美しく輝いてるものもあり、
何者にも束縛されないものとして描かれたものでも
陳腐な作品も多い。
結局は作品の置かれた時代、環境によって作品の
存在の意味が大きく変わってくるのが現実なのだろう。
私の今度の仕事はホテルのロビーとしての機能を
要求され注文主からの制約もあるにはあるが、
その条件の中で自分の描きたいものを貫徹することは可能なように思われた。


もちろんいささかの譲歩も見せない注文主と芸術家がいたら話はそう簡単には進まないだろう。
ゴヤのように宮廷画家として厚く遇されながら深い自己嫌悪にさいなまれ、地下の画室で人生の深淵を一方で
描き続けた一生のことを思うと、真の芸術家魂というものは決して安易なものではないといわざるを得ない。
しかし現代の我々には選択の自由がある。
要すれば気にそまなければ無理をして妥協する必要はない。
そこのところはもっと柔軟に、気楽に考えてもよいのではないかと思う。

 さて肝心の下絵は、つなぎ合わせた実物大の模造紙にコンテと鉛筆を使ってとりかかる。
主題は人と自然の同化、時の移りである。
永遠の時を壁の中に封じ込めてしまったような作品、それが目指すところだった。
四面であることから、東西に日本とシルクロード、南北に中国のモチーフとした。
それそれの季節の花に桜、ひまわり、菊、牡丹を組み合わせることにした。
 
 その年の冬は下絵つくりにかかりきりとなった。
その下絵もイメージを纒めていく上で色々と迷いがあった。
中国側の注文の基本は史実を織り込むことだった。
そのために資料も相当集めた。
けれども史実は実際にあった出来事であり、これを自分なりのイメージで構築することは
余程そのことに思い入れがなければできないことである。
また純粋に絵画というものを考えた場合には、その種の絵は事実の重みに比べれば軽さは
まぬがれない。
挿絵には挿絵のよさもあるが私の目指しているものとは違う。

 そんな課程で遣唐使船や楊貴妃、西遊記といったテーマは消えていった。
それでも中国の方を満足させるレベルものもが描ければよいと思った。
よい絵はどんな人とでも対話を持つことが出来る。
それが絵の神通力だ。
見る人の想像力を膨らませ対話の生まれる絵、そこのところを極めたい、何とかして。


普通油絵の場合、私は下絵とかエスキースを試みない
方である。
描いていくうちにイメージが沸いてくるタイプだと思う。
今回の壁画も下絵はあくまでも下絵として、
出たとこ勝負で暴れる部分も残しておこう。
計算ずくではどうも面白くないと考えてしまうのは
洋画をやっているものの弱みでもあり強みでもある。

 八四年の四月、概ね完成した下絵(完成というのも
変だが)を巻いて一年ぶりに西安入りをした。
巻紙でも五八メートルとなると一〇キロ以上の重さ。
結構な手荷物だ。
張さんとの再会。
設計図を前にしての最終的な打ち合わせ。
現場は漸く鉄筋コンクリートの
骨組みが出来上がりつつあった。
中国人による設計、日本人による建築管理、
香港の下請けグループ、中国人による基礎作業と
いった構成。
その昔多数の外国人が出入りした西安にふさわしい
国際色豊かな建築現場だ。
壁面は漆喰となることを確認。
しっくいの職人は今では日本より中国のほうが潤沢だとのこと。
しっくいに描くとなるとフレスコ技法が必要か。
かえってからの検討課題だ。
あとの準備、実際の制作時間を考えるともう余り時間がない。
今回はとんぼ帰りとなった。








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