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中日新聞(夕刊)
2008年9月6日
絵で集いの絵で集いの場を作りたい   天龍寺のふすま絵が完成

京都・嵐山臨済宗大本山天龍寺の塔頭宝厳院のふすま絵をこのほど完成させた。
禅寺のふすま絵を女性が、それもアクリル絵の具で描くのは初めて。
田村能里子さんにとって壁画級作品として五十作目の記念となった。
東京・世田谷のアトリエを訪ねると、田村さんは「私の壁画の集大成」と、晴れやかな表情。
五十八枚、六十bにわたる大作の名は「風河燦燦三三自在」。
輝く大自然の中で、老若男女三十三人が自由にたたずみ、座り、寝転ぶ。
「人の形はかわらない。人物像なら、未来の人も同じに感じることができる。特定の時代、国、民族を描くのは、
時代を経れば独り善がりになってしまう。自分を無にして描きました」
と語る絵は抹香臭くも説教臭くもない。自由で伸びやかだ。
渋谷にスタジオをしつらえ約一年半。
全作を立てかけて描くため窓を閉め切り、夏は汗だく。冬は手あぶりで指先を暖めながらの作業だった。
「まるで禅の修業でした」と笑う。
けれど壁画制作はいつも「現場」だ。
高所での作業や徹夜仕事も多い。
「現場の数はこなしてきたから、何が起きても対応できます」
誰にも師事せず、団体にも属さずにきた。
「人と比較せず、欲張らず。自分のできることをやるだけ。闘いのように思われ、大変でしょうとよく言われますが、
自分しかできないことを磨くことは苦しくない。楽しい」


両親の疎開先愛知県木曽川町(現一宮市)で生まれ、終戦から数年後、名古屋に移住。
美術課程がある旭丘高校へ進んだ。
武蔵野美術大学卒業後、数年して結婚。夫の転勤でインドへ。四年の間、画板とクレヨンを抱えて、路地へ、
人々の生活の場へと入り込んでいった。
あるとき、「壁画に埋め尽くされた町」と題した写真集に出合い、その町、インド北西部のジュンジュヌを訪れた
田村さんは壁画に魅了された。
「外壁だけでなく、台所や寝室の天井に至るまで描かれた絵。
砂漠を通ってきた旅人には輝くように見えたのでは。
生活の中の壁画が、これほど人の心を動かすのかと驚きました」

一九八六年、文化庁の芸術家在外研究員として中国へ。
西域へ足を伸ばし、北京から西安、敦煌、ウルムチへ。
シルクロードの壁画を見て回った。
初の壁画制作は八八年、日中合弁事業で建設された西安のホテル「唐華賓館」の「二都花宴図」。
十年前に手掛けた、東京都港区の北里研究所病院のロビーには、病床と同じ本数の土筆を草原に描いた。
クルーズ船・飛鳥U、愛知・蒲郡の男子校学生寮、JR名古屋駅構内にも作品がある。
今回のふすま絵は、「二都花宴図」を見た天龍寺塔頭の住職が、「新しい時代の表現を」と依頼した。
「観音菩薩は三十三体に変化して人を救済するという。だから三十三人なんです。
このおじいさん、なくなった祖父に似てる、俺のお袋みたい、とそれぞれに誰かを思い浮かべてもらえたら。
絵は呼び掛ければ答える。
私は絵で集いの場を作りたい。絵を通してコミュニケーションが生まれてほしいんです」


壁画はどれも、その地に生きる人々の心待ちへ巡らせた想いの軌跡。
「風河燦燦」は寺に寄進されるが、コミュニケーション砂漠を漂う私たち現代人への贈りものでもあるだろう。
嵐山に抱かれる天龍寺。
その内が「いのち燃える色」で彩られる。
「空から見たら、緑の中に赤い点」と田村さんが言った。
壁画の視点は高みへも、軽々と自在に飛ぶ。
来年三月の奉納を前に開催される完成記念展は、今月十七日から二十九日まで東京・日本橋高島屋で。
名古屋(十月二日〜十三日)と京都の高島屋にも巡回する。
寺では一般公開時でも全体を見ることは出来ないが、同展では内陣などを含む全てのふすま絵を、
代表的な油彩画や素描とともに展示する予定だ。

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