田村能里子オフィシャルホームページ:過去の掲載記事婦人公論

【人間発見】
「壁画に美神が宿る@」
赤いサリーを身にまとったたくましい女性、白ひげをたくわえ遠く一点を見つめる老人−
シルクロードの風と砂漠の熱気が絵肌から伝わる田村能里子さんの壁画は、
行き交う人が立ち止まるほど鮮烈な印象を放つ。
建物と一体化した彼女の世界は、徹底した現場主義から生まれた。
持ち運びが出来る絵画と違い、壁画は動かせません。
飽きたから取り換えるというわけにはいかない。失敗作だと、頼んだ人も困ってしまう。
だから、描く方も生きていることそのものを壁にぶつけます。命を削ったかなと思うくらいに。
壁画は「わが子」のような意識がありますね。
それに、同じ時代を生きている人の心に触れ、語り合えるものでなくては壁画をつくる意味がないと思っています。
そこを訪れ、通りかかるすべての人と時間を共有し、誰とでも心を交わすことが出来る優しい環境のようなものなんです。

生そのものぶつけ描く 現場に行けば必ず答え

私にはね、「現場に美神がおわします」という信念があります。
壁画が置かれる状況やその土地の歴史、文化を考え、モチーフを編んでいきます。
必ずその環境にあった最適の答えが見つかると信じています。
十年前、東京都港区の北里研究所病院が新棟を建設した際、待合ロビーの壁画を制作したことがあります。
この病院の前身は、かつての結核療養所の土筆(つくし)ヶ岡養生園。
病院のベットの数が二百九十四なので、二百九十四のツクシを草原に画面に盛り込みました。
ツクシの周囲を白い鳥やチョウが飛び交っています。
車椅子を使う人の目線にも入るよう、画面の低い位置に笛を吹いて遊ぶ女性を配しました。
患者さんがこの絵を見て、あの中の一本が自分だと思い、生き生きとツクシのように早く元気になってほしいという
願いを表現しました。
こうしたイメージがわいてきたのも、病院という現場にいて、光線の差し込み具合や周囲の色調などを
確かめながら制作できたからなんです。

■西安の第1号作品が縁 宝厳院ふすま絵手掛ける

最新作は、京都市の天龍寺の塔頭(たっちゅう)、宝厳院(ほうごんいん)の五十八枚のふすま絵だ。
私の壁画第一号は、中国・西安のホテルでした。
シルクロードを旅するお坊さんがかなりおられ、西安に立ち寄る機会も多いようです。
二年前にふすま絵を依頼された天龍寺のご住職もこのホテルを定宿にしていて、私の壁画をえらく気に入ってくださったようです。
仏教が発祥したインドで画家の道を歩み出した私の絵が、
巡り巡ってお寺の役に立つとは、輪廻(りんね)転生じゃありませんが、不思議な縁だと感じています。
それにしても、天龍寺のご住職も勇気のいる決断だったのではないでしょうか。
禅寺と言うのは昔は女人禁制。
しかも、ふすま絵は日本画の画家が手掛けるのが一般的でしょう。
五十八枚ものふすま絵を始めて女性が、初めて洋画で、初めて寺に描く。
初めてづくしの挑戦でしたが、私はあくまで壁画の技法にこだわり、アクリル絵の具でアジアの女性たちが舞う姿を描いてみました。
二〇〇九年三月に落慶法要が執り行われます。
その前に完成記念の個展を九月に開きます。
一度見てやってください。

【人間発見】

「壁画に美神が宿るA」
一九四四年、疎開先の愛知県木曽川町(現一宮市)で生まれる。
子どものころから『独り遊び』の絵を描くことに楽しみを見いだしていた。
終戦から数年後、名古屋市に移り住みました。
私はまだ小学生。町中はガレキの山に覆われ、バラックが点在していました。
現在では想像もつかない戦後の廃墟のモノクローム(白黒)の世界に一転だけ鮮やかな色彩が
浮かぶ光景に突き当たります。
近所に、普通の人とちょっと違う雰囲気の絵描きさんがいました。
ベレー帽をかぶり、おおきなヒマワリなど画材の花束を抱えてアトリエに出入りしていました。
夢のような色彩に満ちたその情景は「いいなあ」と私の視線を釘付けにしました。
何はなくとも、あの色鮮やかな花に囲まれた生活が出来れば、何とか生き抜いていくことができるのではないか。
自分の夢は絵を描くことだとはじめて意識したのは、この時だったかもしれません。

− 名古屋の今池中学から旭丘高校へと進む。
     十代の田村さんはそれぞれの学校で絵の恩師に出会う ー

■こどものころ、独り遊びの絵 中学・高校に絵の恩師

中学一年の時でした。
写生コンクールがあり、近くの公園へ出かけました。
私が描きたかったのは、木立があり、公会堂があり、そこに夕日が落ちていく秋の景色でした。
他の生徒が描き終えて、どんどん帰ってしまうのに、私だけは夕暮れになるのを待っていました。
やっと描き終わったころは、あたりはもう真っ暗。
慌てて学校に戻ると、職員室に明かりがポツンと一つだけともっていました。
肩で息をしている私を先生は怒らなかった。
「ほう、夕日の公園か、悪くないな」とつぶやいた。
あのひと言が、私にとって何にも代えがたい励ましに聞こえました。
その絵が結局、一等賞を取ったのです。
理科のカエルの解剖実験で、それを図にして提出するのですが、私が描いたものが戻ってこない。
なぜですかと聞くと「描写力がすごい。貴重な作品だから、学校に寄付しなさい」とおだてられ、
いい気持ちになったこともありました。
まあ、それだけものを見て写したり、描いたりすることを抵抗なく楽しんでやっていたわけです。
この温かい先生から、「そんなに好きなら、絵の高校に進んだらどうか」と背中を押され、
日本でも珍しい美術課程のある旭丘高校に進むことにしたのです。
高校の先生も好きでした。自宅のアトリエを生徒たちに開放し、課外授業するほど熱心な先生でした。
名古屋地方はよく台風に見舞われましたが、そんな風の強い日でも私たちは無遠慮に上り込んでいた。
アトリエは停電になっていたのに、ロウソクの明かりの下でゆらめく石こう像をデッサンしていました。
先生も「無理だからやめよう」とは言わなかった。
生徒たちの熱い気持ちを大事にしてくれていたのでしょう。

■芸大に進んだ先輩の手法に衝撃  先生と訣別、東京へ


ところが高校も終わりのころ、この愛すべき先生に訣別宣言をすることになったのです。
東京芸大に進んだ先輩が母校で絵を指導する機会がありました。
私がそれまでやっていた方法とは違い、型にはまらない、のびやかな絵を描いているのを見て、衝撃を受けました。
そして「このままではダメ。今すぐ東京へ行こう」と思いつめたのです。
先生の一番忠実な生徒だったから、なかなか打ち明けられず、出発の日にようやく決意を伝えました。
先生は裏切られたような気持ちだったのでしょう。
往復ビンタを浴びたけれど、その足で九百円の片道切符を握りしめ、名古屋駅から夜行列車に飛び乗りました。
私の人生の大きな分岐点でした。
その後、数十年ぶりにお会いし、先生へおわびの言葉を伝えました。
今では、会うべき時に会うべき先生に巡り会えて、自分は本当に運がよかったと思っています。



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 過去の掲載記事
日本経済新聞 2008年6月16・17日
ひとスクランブル 『 人間発見 』