2016年雑誌表紙絵担当した「カレント」の表紙絵画像です。2017年継続中です。
 



週刊新潮7月7日号掲載最終ページ「Good Aging グッドエイジング」 コラム:座間真一 撮影:平野光良





 
 子供のように生んだした壁画を出来る限り見守ってあげたい

  海外からの観光客も訪れるファンケル銀座スクエア。館内に幅十メートルはあろうかと思われる壁画が掲げられている
 大地の風に揺らめくような女性たち。鮮やかな赤や青色を配し、インドか、タイか、
 あるいはシルクロードあたりの風土を連想させる。
 「 FUN-FUN 」と名づけられた作品を描いたのは田村能里子さん。
 おおらかで、柔らかい陰影に富む作品である。
 これまで制作した壁画が六十余り。 客船「 飛鳥 」、東京のホテル椿山荘、横浜MM21コンサートホテル、中山競馬場、
 北里大大学研究所病院、名古屋JRセントラルタワーズから札幌駅まで、全国に作品がある。
 初めて壁画に取り組んだのは昭和六十三年。
 中国西安のホテルから依頼された「二都花宴図」である。
  彼女のご主人は、住友商事で専務をつとめた田村雄二さん。夫の任地に同行し、インドとタイで七年余り生活した。
 いわく、「インドはカルカッタに駐在しましたが、帰国後、ひとりで北インドに出かけ、仏陀が入滅した地を旅し、
 壁画に魅了されました。
 その後、北京の美術学院に留学したのが縁で、西安のホテルから壁画を依頼されたのです」。
  女流画家協会展などで注目を浴びていた彼女は、「前のめりで壁画の制作に没頭していった」。
 以来、三十年の間に六十余りの大作を手がけ、なかには京都嵐山天龍寺の襖絵なども含まれる。
  すでに古希を迎えているが、ご覧のように若い。
 世田谷のマンションで、ご主人と二人暮らし。広いアトリエを設け、百号のキャンパスに絵筆をふるう。健康には十分気を配る。
 「朝は六時過ぎに起きて、抹茶を頂き、ストレッチ・ヨガを一時間ほど。途中、台所へ立ち、朝食の温野菜を用意します。
 蒸籠に十種類以上の野菜をのせて、タイマーをセット。温野菜はアマニ油にスパイスを加えて頂きます。
 昼食はご飯に納豆、キムチ、メカブ、ネギ、卵などをのせた丼。デザートは豆乳やバナナに、胡麻や黄粉をふりかけて・・・」という具合。
 NHKの「きょうの料理」に出演した女流画家らしい食卓だ。
 午後は夫婦揃って、多摩川の土手をウォーキング。
 さらに、「十日に一度はアスレチッククラブに行き、プールで歩き、トレーナーについて腹筋や背筋を鍛えます。
 画家もまた肉体労働者です。腰が曲がっていては壁画は描けません。最近、こまかい文字が見えづらく、老眼鏡をかけるようになりましたが・・・」
 彼女が語る。
 「子供のように生み出した壁画が、私がこの世にいなくなっても存在すると思うと、少しでもよいかたちで残してあげたい。
 壁画は持ち主が変わることもあるし、時間が経てばひび割れも生じる。
 汚れを落とす方法も知っておいて頂きたい。そうしたケアに果たしてどれくらいの時間を要するかわかりませんが、
 持ち主と相談しながら、出来る限り、見守ってあげたいと思います。
 


 月刊美術6月号P8〜P9アートトピックスページに記事が掲載
    「☆ノーベル賞受賞を祝福 田村能里子さんが大村智さんに新作絵画を贈呈☆」



 ArtTopics
  洋画家、壁画家として活躍する田村能里子さんが、昨年10月、ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智さん
     (現北里大特別名誉教授・女子美大名誉理事長)をアトリエに招待。
   その快挙を祝福し描いた新作の贈呈式が行われた。
    そもそも二人の交流は。1999年、北里研究所理事・所長の職にあった大村さんが、
   同研究所病院新築に際し壁画制作(≪萌ゆるとき≫)を依頼したことがはじまり。
   同病院発祥は110年前の日本最初の結核療養所「土筆ヶ丘養生園」であることから、大村さんたっての依頼で、
   壁画の中に「294本のつくし(=病室の数)」を描いたのが楽しい思い出と、田村さんは振り返る。
    式典当日、大村さんはトレードマークの帽子姿で登場し、50号の新作≪巡礼の華ぎ≫とご対面。
   「画面中央、秤を持つ帽子姿の男性は先生自身を、そして隣に寄り添う女性はご家族をイメージして描きました」
   という田村さんの説明を聞きながら「今でも寒い冬にやぐらを組んで病院の壁画に挑む田村さんの姿を鮮明に覚えています。
   そして今日は本当に素晴らしい作品を有難うございます。
   いつかこの絵のようにゆったりとして時間を過ごしたいですね」と謝辞を述べた。
    ノーベル賞受賞後、今も週2回の講演の他、パーティー、挨拶などで多忙をきわめる大村さん。
   とはいえ贈呈式当日はノーベル財団より授与されたメダルを持参するなどサービス精神を発揮。
   短い滞在でありながら、画家の友人知人らで賑わうアトリエは終始興奮に包まれていた。



 4月1日発売「月刊美術5月号」に掲載されました。

 
   洋画家、壁画化として知られる田村能里子さんが、東京・銀座のファンケル銀座スクエアで〈 女神の舞踏会 〉と題したアートイベントを開催する。
   同館10階ロイヤルルームをいくつかの女性像デッサンと演奏会をイメージしたインテリアを設置。
   また、2階ギャラリーデッキや階段踊り場などにデザイン・フォト類を展示するなど、全館を 女神の館 ″のイメージで装飾するプロモーションイベントだ。
    ファンケル銀座スクエアといえば、同社製品(化粧品・健康サポート)販売用の旗艦店としてにぎわう商業施設だが、
   田村さんは同スクエアのシンボルともなっている壁画「FUN-FUN」を制作。
   以来、今日まで様々なイベントやトークショーを開催。
   今回の〈女神の舞踏会〉もそうした流れの一環として実現したもの。
   展示作品はすべて非売だが、女性の美と健康をサポートする銀座のランドマークならではのイベントとして一見の価値がありそうだ。
  
   〈 女神の舞踏会 〉開催について田村さんは言う。
  「個展というには大袈裟ですが、今回のイベントは一味変わった内容となっています。同館吹き抜けロビーには私の壁画〈 FUN-FUN 〉(4m×11m 〉が
  2005年の同館スタート時より飾られており、壁画は2階ギャラリーデッキ(無料開放)より自由に見ることができます。
  イベント開催期間中は、ギャラリーはもちろんのこと、10階を含めて、全館に私の作品群が展示されます。
  アートは美術館や画廊の空間の静寂の中で鑑賞いただくのが主流だとは思いますが、たまには銀座の賑わいの中で、華やぎも感じていただきながらの
  ひと時も楽しいのではないか、と思います。
  男性の方にはちょっと腰が引ける方もいらっしゃるかもしれませんが、どうかお気軽にお立ち寄りください。
  
  イベント最終日の5月3日には、壁画〈 FUN-FUN の登場人物と同じドレスを纏った女神たちの演奏、ダンスパフォーマンスも予定。
  ゴールデンウイークの銀座華麗な彩を添える。 

季刊誌「50人50様のエレガンス!ずっと美しい人のマイスタイル」(集英社インターナショナル:2016年3月1日発売)
 



  アートコレクターズ2016年3月号



  
  月刊カレント1月号 ( 潮流社発行 )P10〜P17掲載

 

   ◎ 究極を求めて124 ◎
   土地を見守る壁画の美神   壁画家 田村能里子 聞き手 矢野弾

  − 田村先生の壁画は小紙も表紙絵にて使わせていただいておりますが、壁画家の第一人者として大変なご活躍ですね。
    壁画の作品数はどれくらいになりますか。

  田村  現在、六十一作品が完了しました。周りの方々に喜んでもらえて、有り難い限りです。

  − 壁画を描くに至る、その出会いはどこでしたか。

  田村  壁画との出会いは、二十代のころに訪れたインドでした。
       元々は、絵描きを志して、ヨーロッパやイタリアに対して憧れを抱いている普通の女の子という感じでした。
       しかし急遽夫の海外転勤でインドのカルカッタに移住することになります。
       インドは宗教観や生活様式。衛生環境なども日本とは全く違いますから、夫婦ともども、戸惑いに満ちた日々でした。
       果物はそのままでは食べられませんし、水の衛生環境もよくありません。
       カースト制度や宗教の対立などもあり、外で気軽にスケッチをすることもはばかられました。

  − それは戸惑いもあったでしょう。

  田村  しかし同時に、私の心の中には「インドで何を掴もう」という思いもありました。
       インドに住んだことが自分にとって何かしら血肉になると考えていました。今思うと、非常にたくましかったと思います。

 −  そこで壁画に出会われたのですか。

 田村   カルカッタに住んでいた時に、インド人のカメラマンの写真集を、図書館で観ました。
       その中で、壁画に埋め尽くされた街の写真が私の印象に強烈に残りました。そのまま、インドに四年間滞在した後、日本へと帰国します。
       日本では画家の仕事をしばらく続けておりましたが、どうしてもその壁画の街のことが頭から離れず、私の中に一つの思いが強くなります。
       「いつか私も、本当の絵描きになれたら、人生で一度は壁画を描きたい」。
       その写真集を取り寄せ、その本を頼りにラジャスタン砂漠のジュンジュヌへの旅を決意しました。

 −  壁画に天命を感じられたのですね。

 田村   絵描きというのは、最初から絵描きというわけではありません。
       例えば政治家なら、少しずつ政治家のステップを登っていき、政治家になっていきます。
       しかし、絵描きはというとそうではなく、絵を描くだけでしたら幼稚園児でもできます。
       いくら美術大学で技術を磨いて、絵でお金をもらっていたとしても、それは絵が上手いというだけの話です。
       絵がとても好きな人もいれば、趣味の人もいるでしょう。
       絵描きは、そこから先に「自分」というものを見つけないといけないのです。
       ピカソもゴッホも、最初から周りに認められていたわけではありません。
       美大を出て、社会で様々な経験を積んだとしても、社会が認めてくれるわけではありません。
       そういう意味で、私がインドで「壁画を描きたい」という強烈な思いを持ったことは、私の人生の枠を外す大切な場面になりました。
       まさに「自分」との出会いの瞬間でした。

 − 不思議なご縁ですね。

 田村   本当にそう思います。そして私は、その写真集を片手に、インド砂漠のジュンジュヌという街へと旅します。
       当時、旅行雑誌なんてありませんし、日本人でそこに行くのは初めてだったそうです。
       過酷な旅になることは承知の上でしたが、しかし人間、やりたいことが目の前にあれば、何でもできるものです。
       「そこに行きたい!」と想うと、あとは運だけが頼りでした。
       片言の英語を駆使して、ニューデリーからジュンジュヌへ行くために電車を乗り継ぎます。
       その道中でなんと、ジュンジュヌの大学の学長と出会うことができました。

 − それはまたご縁ですね。

 田村  本当に幸運です。神様はいるなと思いました。
      その先生はお部屋を貸し出してくださり、街の案内の手配までしていただきました。本当によくしていただきました。
      ジュンジュヌの街を案内していただくと、本当に壁という壁が絵で埋め尽くされているのです。
      一般の家屋の壁や天井にも余すところなく絵が描かれている。
      ご飯をを炊く釜の上にも絵が描かれていて、ほとんど消えかかっていました。
      日本人の私からしたらもったいないと思っていますが、現地の人からしたら当たり前の日常で、何が珍しいのだろうという感じでしたね。

 − それはもう何百点という数でしょうね。

 田村  本当に壁という壁、天井という天井に描かれているので、数では表わせられない量ですね。
      日本人なら「ここに描いちゃダメ」とか、「家具の配置が」とか言いそうなところです。
      しかし、現地でしばらく生活しているとわかるのですが、夜になり、横になって天井を見ると、星が描かれているのです。
      そうして明日も良い日にしたいな、などと希望を抱きながら眠りにつく生活は本当に素敵でした。
      そうやって、生活に密着して、見る人に安らぎを与える壁画というものにどんどん魅せられていきました。
      
 −  まさに生活であり、文化ですね。田村先生の基調である「赤」のイメージも、その時の経験から得たものですか?

 田村  ジュンジュヌだけではありませんが、インドでの経験が元になっています。
      ヒンドゥー教の寺院を訪れると、羊の首まではねて、神様へのいけにえとしていくつも献上してありました。
      赤い血が流れており、その時は「血の赤」という怖い印象でしたが、そのイメージが強烈に残りました。
      また、砂漠での生活では、赤のサリーが遠くからでも非常に目立つのです。
      それらの経験から「赤」という色を持つ、生命力に満ちた、明日への希望というイメージが強く残っており、だんだん赤に引き寄せられて、
      自分のテーマカラーとなっていきました。

 −  インドでの経験をご自身の文化に消化したんですね。

 田村  インドでの経験で、私が描きたいものを見つけることができました。
      砂漠の情景や暑さ、砂漠の風、歴史が積み重なった深みなどです。
      帰国してからは、自分の描きたい絵の「絵肌」(マチエール)を表現できる手法を作ることに取り掛かりました。
      ツルっとした絵肌もあれば、サラッとした絵肌もあります。
      人の肌でも、ツルっとした肌とそうでない肌も描きますが、それらはすべて同じ人間ですし、表現の差です。
      私はざらっとした絵肌を求めましたが、日本でだれもやったことのない表現でした。
      最終的に、スポンジ生地のローラーを特注で作ってもらい、壁に描くと大成功です。
      こうしてやっと自分の表現力を見つけることができました。

 −  壁画を描くことに至ったきっかけは何でしょうか。

 田村  それから十年くらい、日本で活動しながら三十代を過ごしました。その間に、アクシデントが起こりました。
      ある公募展で、私が最優秀賞と決まった連絡を頂き、新聞でも発表がされました。
      しかし、定められた百号のサイズから五センチメートル超過しているという異議が後から起こり、
      恣意的にグランプリから外される、という事件がありました。
      その件もあり、様々なところからお声をかけていただけることになりましたが、私は無所属を貫きました。
      そうすると、今度は煙たがられたのか、田村を日本から追い出そうとする動きがあり、文化庁から海外への推薦の話をいただきました。
      これが壁画制作に繋がっていくので、この事件は忘れられないですね。
      
 −  それを乗り越えたということが凄いことですね。

 田村  当時四十歳を過ぎていましたが、「壁画を描きたい」という思いが再熱し、インドの次は、仏教伝来の土地、中国に行こうと思いました。
      しかし当時、日本から中国への留学はほとんど事例が無く、難しいと言われました。
      私もとにかく行動して、幸いにも北京の中央美術学院という一流の大学に留学することが決まりました。
      人の紹介で、唐の時代に栄えた成案を訪ねところ「唐華賓館」というホテルが日中合弁で立つんだという話を聞きました。
      そして大学に戻ると突然、その人から電話がかかってきてなんと「壁画を描いてほしい」と言うのです。
      思わず、「えっ!」と思いました。嬉しさ半分、自信のなさが半分です。
      初めての壁画制作がなんと幅六十メートル、高さ二メートルです。
      またとない機会ですのでお話をお受けして、唐の歴史から全て勉強して臨みました。
      西にはシルクロード、東には日本、南北には唐の時代の繁栄を描きました。

 −  それは唐突なご縁でしたね。初めての製作期間はどれくらいでしたか。

 田村  絵具を選ぶ工程も含め、制作にかかった期間は一年半でした。壁画を描く際には、絵の具の選定が非常に重要になります。
      ヨーロッパとインドで描かれた壁画は、時が経つと色が変わり、亀裂が入ります。
      それがまた逆に歴史を感じさせるのですが、現代アートとして壁画を制作する以上、風化しない素材を選ぶ必要があると考えました。
      それを提供してくれたのがアメリカの絵の具会社でした。彼らも中国への参入を狙っていたことと相まって、なんと無償で提供してくれたのです。
      大きな壁画でいたから、相当な量の絵の具を船便で運んで、税関もクリアして、という手間を多くかけて提供してくれたのです。

 − それはありがたいですね

 田村  ですので私は、完成した絵の脇に、絵の具の説明とともに「絵具はこの会社が提供してくれた」という事実を、
      英語・中国語・日本語で、石に刻んでしっかりと残すことにしました。
      彼らが気を遣ってくれた心、それをしっかりと伝えていこうと思ったのです。

 − 六十一作品の中で、特に印象に残っているものがあれば教えてください。

 田村  私の作品はすべて我が子のような存在です。六十一作品すべてが大切です。
      順位をつけることは難しいですね。しかし振り返ると、様々な場所で壁画を描いてきたと思います。
      客船「飛鳥」では、ゴンドラに乗って、三十メートルの高さで作業しました。
      油絵であれば、自宅のアトリエでコーヒーを飲みながら、音楽を聴きながら制作できますが、壁画は違います。
      現地の工事現場に足場を組んで、高いところや、寒いところ、暑いところで制作します。
      ですから工事現場の方々との交流が本当に大切で、支えられて制作ができました。
      普通の絵かきとは違って、アトリエの中ではなく、人間同士の協力の上で作品を作っていくのです。
      また、壁画は、少なくとも何十年もそこに残って、その土地の方たちの生活を見守り、
      そこを訪れた方たちどなたにも心に安らぎや元気を与えることができます。
      制作過程は大変ですが、それが壁画の素晴らしいところです。

 − 壁画に命が吹き込まれ、ともに歩んでいくのですね。

 田村  以前、北里研究所病院の壁画を描いた際には、ノーベル賞受賞の大村智先生から直接ご依頼いただきました。
      お話を伺っていると、この病院の前身は、かつての結核療養所の土筆(つくし)ヶ岡養生園だそうで
      「一本でいいから土筆を絵の中に入れてほしい」という要望を頂きました。
      「病床はいくつありますか?」と伺い、病院のベットの数が二百九十四床ということなので、二百九十四本の土筆を壁面に盛り込みました。
      病院では病で臥せっている人がいて、車いすの人もいる。
      彼らが生き生きとつくしのように元気になってほしいという想いを込めました。
      すると完成後、患者さんとともに看護師さんが壁画の前で足を止め、
      「あなたの土筆はあれよ。あんな野原のようにのびやかに明るいところに早く出ましょうね」と語りかけていました。

 − 素晴らしく心のあるお話です。

 田村  私がなりたかった絵描きというのは、こういうことなんです。
      絵を描いて有名になることではなく、病院には病院の、図書館には図書館の目的があります。
      その目的でそこに訪れた方たちの心が癒されたり、ゆったりとしたり。
      見る人が少しでもそう思ってくれたらいいと思っています。

 − その感性が温もりとなって、絵に表れているのですね。

 田村  愛知県蒲郡の海陽学園の食堂の壁画を依頼されたときには、校長先生から日本人の原点である「日本の神々の国」というイメージを伺いました。
      海陽学園は、中高一貫校で、全寮制の男子校です。 十三歳の男の子が親元を離れて勉学にいそしむ場です。
      そこに私は、母親のイメージで太陽の女神を描きました。
      彼らも、母親と離れて寂しいとか、先生に怒られて悲しいとかいろいろあるでしょう。
      その子たちが絵を見た時に「頑張るよ、お母さん」と母親を感じてくれたら良いなと。
      そうやって、壁画はずっとそこにいる人たちを見守って、心に光を与え続けてくれています。

 − その思いを壁画に込めることで命が吹き込まれるのですね。これからの日本・世界に必要な感性なのではないでしょうか。

 田村  日本を取り巻く現状が騒がしくなっていますから、調和のとれた、バランスの取れた状態が保たれれば良いな、という想いがあります。
      絵も、生み出して終わり、描いて終わりではありません。
      日本も、せっかく戦後に比べて人らしく暮らすことができているのですから、後は、人としての調和をバランスよくとっていき、
      世界の中の日本として、上手くバランスが取れることが望みです








                             (C)Noriko Tamura All Rights Reserv
〜 2016年掲載記事 〜