田村能里子オフィシャルホームページ:過去の掲載記事婦人公論
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AERA 
1993年4月6日号掲載
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インドからシルクロードへ
    行動力で現場に美神発見


「あら、ちょうどマチュール(画質)が似てるわね」

絵の具が飛び散ったパンジャビ・ドレス姿で、描きかけの作品の前に立つと、
絵の中の人物のようになった。


年をとることも悪くない。そう思えるようになったという。
「面白い仕事も舞い込んできそうだし、年を取ること自信がつきました。
こんな人生が待っていたとは思いませんでした」
 こういう理由の一つは、この数年の壁画かとしての実績にある。
最初の壁画は、中国・西安の日中合併のホテルのロビー。
一辺十四・五メートルの壁の四面の天井近くを飾る、絵巻物のような壁画だ。
 ある面には日本の童女が戯れていたり、別の面にはシルクロードを行く隊商が
描かれていたり。
田村さん独特のイメージによる「日中交流」の図だ。
 全て現場で描く方式をとり、一年半かけた。
冬の気温は零下10度。おまけに、建築工事の騒音に囲まれての制作。
「ところが、全然気にならないの。筆をとると自分の世界に入っちゃうんですね」

想像すると人物が動き出す


体得したのが、「美神は現場におわします」という信条だ。
 下絵を完全には作らない。
デッサンや素材を持ち込んで、半分は現場で考える。
「ここでみんなが食事をするんだな、おしゃべりをするんだな、と想像すると、
人物がパッパッと動き出す。
 画面の大きさに怖気ぬ構成力は、自然に備わっていたらしい。
「男性的なものを持っているんでしょうね、きっと」
 少女のころから、野心と行動力は旺盛だった。
 進学の時、県立高校の美術過程を選んだ。
手に職をつけたいと言う自立心と、東京へ出たいという願いを、同時に満たすためだ。
「東京がパリのように思えた。芸大に行くといえば、親も納得すると考えたんです」
 週に何回かは、担任の教師のアトリエに押しかけて教えを受けていた。
が、卒業を半年後に控えたある晩「造反」した。
「先生のやり方では芸大にいけないんじゃないか、すぐに東京にいかなきゃ、
と思いつめました」
 切符をにぎりしめて教師の家を訪れ、東京行きを告げると、
「恩知らずの顔は見たくない」
と張り倒された。
「何とかして絵描きに、男と対等の職業を、と思っていました」
 画家として飛躍した最初のきっかけは、インドのカルカッタで過ごした四年間だ。
 一人の女性モデルを毎日根気よく描き続けた。
帰国後も何度か再訪し、通算十数年間はインドの女性に執着してきた。
「インドの日だまりにいる女たちにこだわり続け、その幻覚症状の中にいた」
 彼女たちのいる空間は、悠然として明るいという。

木が朽ちゆくように老いる

 次のステップになったのが、中国留学だ。
インドとどこか通じる国、そして絵画留学生が行ったことのない国だから選んだ。
 北京の中央美術院で一通りの講程を終え、西域の一人旅に出た。
シルクロードでの発見は、人々の美しい老い方だった。
「木が朽ちて土になるように、まったく自然体。世俗の欲望がないからなのか。
紙がなくなるまで描きためてきました」
 小学校の教室ほどもある自宅のリビングルームには、家具や調度、敷物、壁掛けなど
インドや西域の匂いがあふれている。
 疲れると、カーテンを替えたりイスを張り替えたり、この部屋のインテリアに
手を入れる。
「いつも絵描きの顔ばかりしていたら、普通のことが入ってこないでしょ」
 遊びも一生懸命する。
自宅でのパーティーもその一つ。
自慢の料理はもちろん、インドカレーだ。


AERA
1993年4月6日発売
NO.14 (発行通巻260号)




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